閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

近代能楽集 綾の鼓 弱法師

http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000061_2_play.html

  • 作:三島由紀夫
  • 演出:前田司郎『綾の鼓』深津篤史『弱法師』
  • 美術:池田ともゆき
  • 照明:小笠原純
  • 音響:上田好生
  • 衣裳:半田悦子
  • キャスト:『綾の鼓』綿引勝彦国広富之、金替康博、奥田洋平、岡野真那美、岡野真那美、多岐川裕美、十朱幸代

『弱法師』木村 了、国広富之、鶴田 忍、一柳みる、多岐川裕美、十朱幸代

  • 上演時間:2時間10分(休憩15分)
  • 劇場:初台 新国立劇場 小劇場
  • 評価:『綾の鼓』☆☆☆★ 『弱法師』☆☆☆☆
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五反田団の前田司郎、桃園会の深津篤史という二人の若手岸田賞受賞による『近代能楽集』の上演。前田が「綾の鼓」、深津が「弱法師」を演出した。両作品の美術等のスタッフは同一、十朱幸代、国広富之、多岐川裕美など一部の役者が両方の作品に出演する。岸田國士の二つの戯曲を、宮田慶子-深津篤史の二人の演出家の組み合わせでセット上演した試みの第二段。

「綾の鼓」は三島戯曲のテクストの世界を素直に忠実に舞台化したかのようなオーソドックスな演出だった。恋する老人を嘲弄する悪女、華子役の十朱幸代は、経験豊かな女優ならでは堂々とした演技で見ごたえがあった。三島の「綾の鼓」の公演を見に来た観客なら満足できる水準の舞台だったと思う。しかしどちらかというと前田司郎演出の「綾の鼓」を見に来た僕にとっては物足りなさを感じる舞台だった。栗山某やあるいは浅利某が同じキャストでやっても、似たような舞台ができるのではないか、と思えるほど、前田色の薄い舞台だったからだ。

異物感の強い戯曲(たとえば評価の定まった古典的戯曲)を若い演出家が上演する場合、その戯曲を強引にこちら側に引き寄せて、自分の世界の枠組みで構成しなおした上で提示するのではなく、オリジナルの戯曲の世界を尊重したうえで、経験豊かな役者の技量や個性に作品を託す、つまり自分が向こう側の世界に飛び込んで舞台を作るというやり方は当然ありうる選択肢だ。昨年の、タニノクロウ演出によるイプセンの『野鴨』は、この後者のやり方で作られた舞台の一例だと思う。しかしタニノクロウは、その徹底した戯曲の読み込みと、ディテイルにほんのわずか隠し味のようにタニノ色を混入させることで、きわめてオーソドックスでありながら新劇的定型からは自由な、現代的なイプセンを作り上げていた。タニノクロウの『野鴨』は、マニアックな黒いマニエリスムだけでなく、徹底した言葉の演劇である近代演劇と格闘したうえでそこの古典に新しい力を注ぐことのできる底力をタニノが持つことを示す公演だった。

ディテイルまできっちりとすきなく世界が構築されているように思える三島戯曲と前田司郎の演劇は、あまり相性がよくないような感じがして、失敗の可能性が高いだろうなと上演前には思っていた。実際の舞台は失敗とはいえないけれど、戯曲と役者に前田が押さえ込まれてしまったように思える舞台になっていた。こうした感想はほかの観劇のブログでもよく見かける。

「綾の鼓」は、この五月に三条会によるきわめて独創的な表現でありながら、原作の核となる部分をまったくおろそかにしていない、非常に優れた公演を見ているだけに、前田「綾の鼓」の成果は相対的にかすんでみえる。やはり若手演出家の挑戦としては、失敗を覚悟で、前田世界を強引に三島戯曲のなかで作り出す方向で演出を考えたほうがよかったのかもしれない。ぐだぐだな感じが漂うゆるい『近代能楽集』も見てみたかった気がする。古典を正面から受け止めて成功したタニノクロウの例もあるので、これは結果論になってしまうけれど。

深津篤史の「弱法師」。彼の演出作品を見るのはこれが4作目になる。この人のテクストの扱いはとても手馴れた余裕のようなものを感じる。観客をあえて戸惑わせるような仕掛けを冒頭に提示して、それを公演中にゆっくりとほぐしていく。しかしエンターテイメントの推理劇とは違い、この解きほぐしのあとにも、観客には安易なカタルシスは与えられず、意地悪なパズルのようなすっきりしない感覚を残される。

カラフルなパネルに覆われた平面的な舞台の上で、白塗り顔に黒い服を着た二組の夫妻が観客のほうを向いて横に並ぶ。この服装が異常で、蛍光色のような緑やオレンジの派手な縁取りがされているのだ。一昔前のコンピューター・グラフィックの画面を見るような感じである。調停委員(十朱幸代)と俊徳(木村了)の二人だけが普通の服装をしている。
前半部と後半部のコントラストが強調された舞台だった。前半は盲目の美少年である俊徳に翻弄され、彼の気まぐれな指示に完全にコントロールされ、自分を見失っていく二組の夫婦を戯画的に描き出す。舞台上で夫婦は常に観客のほうを向いて訴えかける。その台詞回しも動きも過度に記号化され、マリオネット
そして後半は調停員と俊徳の二人の互いの実存を賭け、化かしあっている、あるいは説得しようとしてるかのような緊張感のある言葉による対決の場面である。
俊徳の口から流れ出る終末のイメージの壮絶さが美しく舞台に響く。俊徳を演じた木村了がよかった。俊徳の繊細でエキセントリックな魅力が具現されていた。そのモノローグの朗唱はテクストの詩的な美しさをしっかりと伝えていた。