- http://faifai.tv/news/faifai/2135/
- 作:北川陽子
- 演出:快快
- ドラマトゥルク:セバスチャンブロイ
- 舞台美術:佐々木文美
- 衣装:藤谷香子
- 照明:中山奈美
- 音響:星野大輔
- 舞台監督:佐藤恵
- 宣伝美術:天野史朗
- 制作:河村美帆香
- Web/写真:加藤和也
- 出演:大道寺梨乃、野上絹代、山崎皓司
- 劇場:こまばアゴラ劇場
- 評価:☆☆☆★
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FAIFAIがこまばアゴラ劇場で公演を行うのは6年ぶりとのこと。当時(2008年)、小指値という名前だったこのユニットの駒場アゴラでの公演、『霊感少女ヒドミ』を私は見ている。若い彼らの表現の破天荒さ、危うさが、眩いばかりの光を放っていた。この後、2年ほどのあいだ、私は快快のほぼすべての公演を見にいっていた。見に行かなくなったきっかけの作品は、落語をベースとした『SHIBAHAMA』だった。彼らの若さに対して漠然と感じていた違和感が大きくなっていたことにこの公演を見て気づいたのだ。快快では観客はあたかも「お友達」のように迎えられるのだが、それが少々苦痛に感じられた。「お友達」になれるわけがないじゃないか。ポップで洗練された彼らのスタイルのなかで、異物である自分の存在を意識してしまうようになり、彼らのパフォーマンスを心から楽しめてないことに気づいてしまったのだ。
今回はこまばアゴラでの公演だったので、こまばアゴラ劇場支援会員の特典で彼らの舞台を久々に見ることになった。
快快は一昨年、主要なメンバーがごっそりとぬけた。『へんしん(仮)』は快快という集団自身の自伝的劇的コラージュであるように私には感じられた。6年の年月に彼らのなかで起こった様々な変化が、動物への「へんしん」という形態に仮託され、演劇化されている。一度弾け、砕け散った後で再生しつつある彼らの変化の有様に複雑な気分になった。「へんしん」は突然の交通事故で死につつある少女の頭のなかに映し出された幻影のように展開する。FAIFAIというユニットも、一度ならず死んだあと、今また再生しつつあるように見える。変化の過程でその先を手探りしながら前に進もうとしているFAIFAIのマニフェストのような作品ではないかと私は思った。
最後の場面がとりわけ印象的だ。光に満たされた舞台で、三人が「あーっ、あーっ」と叫び声をコーラスさせながら、後ろに倒れていく。あの叫びの合唱が共鳴して耳元でジンジン響いた。観客は舞台に転がったまま三人の体を乗り越えて、出口へ向かう。
私が見たのは5/18(日)の夜の公演だったが、同じ日の昼の公演でゴリラに「へんしん」した山崎皓司が客席に侵入したときに、中年男性の観客が怒り、舞台に上がるという事態が生じたらしい。この件について快快の公式ツィッターアカウントで、この観客を「ダサい」、「豚」と形容し、罵倒したことが、ちょっとした物議をかもした。観客を罵倒したツィートは消去され、翌日、主宰の北川陽子からこの罵倒ツィートの発信に対する謝罪がツィートされた。
小劇場の観客であっても、その公演が外部に開かれたものであるかぎり、観客は作り手と価値観をともにする「お友達」であるとは限らない。客いじりという観客側を作品に積極的に取り込む仕掛を用いながら、それによってもたらされた「破壊行為」を公式ツィッターで攻撃するのはお門違いな話だ。予定調和ではなく、未知の他者がもたらすスリリングな反応こそ、観客参加演劇の醍醐味であるとも言えるからである。もし予想外の破壊行為によって、自分たちの作品の美意識が損なわれることを怖れるのであれば、最初から客いじりなどを行わないもしくは仕込みのさくらの客にこうした行為を行うべきだろう。快快のこのアクシデントは、観客参加型演劇の危うさ、演劇公演における観客と舞台の関係についての重要な問題提起になっているように思う。この問題についてはもう少し深く考えた上で、また改めて考えを述べたい。