閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

スタッフド・パペット・シアター『マチルダ』

作・演出・美術:ネビル・トランター Neville Tranter

出演:ネビル・トランター、ウィム・シトヴァスト Wim Sitvast

劇場:プーク人形劇場

上演時間:55分

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とにかく脚本が素晴らしい。こんなリアルで美しい脚本はそう書くことができるものでない。人形劇の特性が生かされた素晴らしい脚本だった。これまで見てきた大人向けの人形劇の多くは脚本に不満を感じていた。日本では大人向け人形劇の観客はきわめて限定されていて、そのほとんどが人形劇の創作に関わっている方でないだろうか。そのためか人形造形の美しさや操演の洗練ぶりなど技術的なところに重点が置かれ、台本は人形を動かす口実、枠組みにしか感じられない空虚で貧弱な内容のものが多いように思っていた。大人のための人形劇はそのあまりに限定されあ観客層ゆえに、操演や人形をいかに見せるかが重視され、人形によるドラマよりもむしろ人形そのものを見るための芝居になっているものが多いように思った。

 人形劇の人形は、その空洞性、受動性ゆえに、人間の俳優以上に、観客の感情や願望の受容体となる。生命のない人形はその思いをじっと受けとめることで、各々の観客のもとで生命を持つ自律的な存在となる。私たちは人形に私たち自身の姿を見ている。

生身の俳優によって現実を表象するのではなく、あえて人形が使われる意味はなんだろうか。人形劇を見るたびにこの問は繰り返される。人形は生身の俳優の代理なのであろうか。代理であるなら、どこに人形に俳優を代理させる意味があるのだろうか。人形劇は人間の俳優の演じる演劇の代替ではなく、人形劇固有の世界があるはずだ。それではいわゆる演劇にはない、人形劇固有の表現とはどんなものだろう。

あの残酷さと優しさは、人形という媒介を通してこそ、直視できるものとなる。人形劇は、世界の本質を抽出したうえで、それに具体的なかたちを与えることができる。人形は本質的に象徴的で寓意的な存在だ。本当に必要な要素だけを伝えるそのストイシズムゆえに、人形は私たち観客の様々な思いを受けとめる容器となりうる。

チルダは介護付き老人ホーム《カーサ・ヴェルデ》で暮らす102歳の老女の名前である。暗い舞台上の中心で彼女は開演前から鉄棒にじっとぶら下がったまま、前方を眺めている。眺めているというはその表情はにらみつけてるというほうが近いかもしれない。55分の上演時間のうちの最初の40分間、彼女は同じ姿勢を保ったまま、動きもしないし、話もしない。不動の彼女の前で、《カーサ・ヴェルデ》の経営陣の二人はどうやって老人たちを食い物にして、さらに大きな利益を得るかという話ばかりしている。老人たちの介護をする男の看護士はいつも不機嫌・無愛想で、老人たちの扱いもぞんざいだ。入居者の一人マリーは看護士の目を盗み、新聞社に電話して《カーサ・ヴェルデ》の劣悪な環境を告発するマリー、ダウン症の老婆ルーシーと彼女にずっと付き添ってきた心優しき兄のヘンリー、ライオンのぬいぐるみを唯一の友とし、狂気と絶望のなかに生きるミスター・ロスト。102歳のマリーは鉄棒にぶら下がったまま、《カーサ・ヴェルデ》の人々の様子を見守っている。

チルダはこのままずっと最後まで動かないままなのではないかと思っていたら、開園して40分たったころにようやく彼女は動き出す。最初は意味のわからないうめき声をあげて、それが徐々に意味のある言葉になっていく。動けるといっても彼女は鉄棒にぶら下がった状態であり、鉄棒を離れて移動することはできないようだ。彼女が大事にしていた赤毛の女の子の人形が見当たらないとマチルダは当り散らしている。その人形は実は彼女の前においてあるテーブルにぶら下がっているのだが、彼女の位置からはそれを見ることができない。黒いシャツを着た操演者(ネヴィル・トランター)の姿を彼女のは見ることができるのだが、それが誰なのかはわからない。観客にもこの操演者が劇のなかの人物としてどういう役割を果たしているのかわからない。彼女は話し始めたのは、戦争が引き離した彼女の若いころの恋人ジャン・ミシェルのことだ。赤毛の人形はジャン・ミシェルが彼女に贈ったプレゼントだった。しかし彼女が誰に向かってジャン・ミシェルの思い出を話しているのか。マチルダはこの黒シャツの人間に話しかけるのか、独り言を言っている、自分に言い聞かせているのか。

若いときの恋の思い出、これだけが102歳となった彼女の生を支えているように見えた。ジャン・ミシェルのことを語る彼女は、その語りともがくような動きによって、彼女がまさに「生きている」ことを私たちに力強く伝えている。

死の間際の老女が若いころの恋の記憶を再現するという作品などいくらでもあるではないか。確かにそのとおりだ。しかしここで人形劇の特質に立ち返ってみよう。