閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

おじさん,語学する

塩田勉(集英社文庫,2001年)
ISBN:4087200949
評価:☆☆☆☆★

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初老のおじさんが,パリに住む孫娘とのコミュニケーションのために,一念発起してほぼゼロの状態からフランス語習得に励むというフィクションの物語を軸に,実践的な外国語習得のノウハウのヒントを紹介するユニークな語学入門書.著者は昨年廃止された早稲田大学語学教育研究所(語研)の教授.語研では英語速読の授業を担当していたように思う.この授業は人気があって僕も申し込んだが抽選に外れて結局一度も受講できないままだった.学部の組織とは独立した全学対象の語学教育・研究機関である語研の存在意義は今となってみると大きかったように思う.伝統的な文法・訳読的教授法から脱却できない学部の語学授業を補完する有効なシステムだった.学外の語学学校よりはるかに受講料も安く,しかも多くの科目で卒業単位として認定されるという利点もあった.各言語セクションの連携の弱さや研究機関としてのアウトプットに乏しかったことから廃止されてしまったが,うまく発展させれば非常に有用な機関となっていたはずだ.
さてこのユニークな語学入門書で紹介されている語学習得の知恵やノウハウはすべて著者の教育活動の実践のなかから厳選されたものであり,僕が学生の立場,あるいは語学教師の立場で漠然と感じていた語学教育への不満や不安の多くに対する解答例となっていた.「訳読主義」がもたらす弊害,「訳読主義」の背景となっている文化について記している第六章は,今後の僕の語学教師問としてのありかたに大きなヒントを与えてくれたように思う.本文中で紹介されているきわめて実践的で効果的に思えるノウハウも参考になる.特にNHKの語学講座の効用,ベルリッツ・メトッドの優れている点,学習中に必ず訪れる「飽き」への対処法など,学習者の心理状態のリアルな想定に基づいて,柔軟で有効性の高い提言が数多く含まれている.
もちろんこうしたノウハウ紹介のベースとなっている物語は,フィクションであり,実際にはフランスに孫がいるなどという強烈なモチベーションが存在する初老のおじさんはそれほどいないだろうし,仮に学習のモチベーションがあったにせよ,この主人公のように柔軟な精神と粘り強さを発揮できる人も少ないだろう.外国語習得法紹介が主目的にせよ,物語としてはいかにも「うまくいきすぎ」なのだ.にもかかわらず,この実在しない主人公が1年半にのぼるフランス語学習の末,パリに赴き,孫にフランス語で話しかけるに至った最後のシーンにはほろりとくるものがあった.外国語習得法紹介のための便宜的物語とはいえ,主人公の姿が丁寧にリアリティーをもって描写されていたために,読んでいくうちに感情移入させられてしまったのだ.本の中では軽快に楽しげに学習の様子は書かれているのであるが,老年期に1年半にわたって語学学習をつづけ,コミュニケーションできるレベルまでに至るまでの道のりはやはり平坦なものではなく,いろいろとしんどい山を越えたに違いないはずだ,などと思ってしまったわけだ.初老の男の孫に会いたい一心というモチベーションではじめた外国語学習の優しいハッピーエンド.僕も語学教師であるからには,外国語習得が学生たちに新しい世界を開くきっかけとなるような授業をしてみたい.
最終章で著者は「この本で模索したスタイルが,商品として成功するかどうかは初めての試みなのでわからない」と記しているが,新書の競争が激化している昨今,本屋の棚をみるかぎり,2001年に発行されたこの新書の居場所は残念ながらいまやかなり縮小されているようだ.タイトルがいまひとつ購買意欲をひかないと思うのだが.内容はユニークでも,タイトルはオーソドックスな「語学入門書」的なもののほうがよかったように思う.
語学習得中の人のみならず,教える立場の人間にも一読を勧めたい良書.
思わぬ掘り出し物だった.