- 第51回 ロシア語劇団コンツェルト本公演『夜明けの星たち』
- 原作:アレクサンドル・ガーリン『夜明けの星たち』(訳・堀江新二 岩波文庫)より
- 演出:白石みお
- 観劇日:2022/2/25(金) 13:00~
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上演時間1時間50分。私が見たのは千秋楽公演で、公演後に劇団員による舞台挨拶があった。ロシア語劇団コンツェルトは私が大学学部生だった30年以上前から活動していた。私が加入していたサークル、美術研究会の先輩がこの劇団の団員でもあったことを今回、公演を見に行って思い出した。もしかするとそのとき、一度くらいコンツェルトの公演を見に行っていたかもしれない。
コンツェルトはロシア語で上演する団体だ。ロシア語学習者が、ロシア語の台詞を暗記して、人前で発話するのは語学のよい訓練にはなるに違いない。しかしそれをロシア語学習者でもない人間が見て果たして面白いものだろうか、ということはちょっと考えた。語学教材の他愛のないスキットのようなものを見せられたらたまらないなと。
今回見に行く気になったのは、かつて同僚だったロシア文学者がコンツェルトのツィートを引用し、「この『夜明けの星たち』はいい作品ですよね」とつぶやいていたのを目にして、直感的に「これは見ておいてもいいかな」と思ったのだ。ロシアの現代戯曲の上演(しかも面白いらしい)がどんなものか気になったし、あとはいつか自分が中世ラテン語劇の原語上演をやってみたいという夢を持っていて、この学生たちのロシア語劇で字幕などをどのように処理しているのか確認したかったというのもある。それに今の日本でロシア語を選択して、しかも演劇までやっているような若者というのは、相当の変人の部類と言ってもいいだろう。そういった「特殊な」若者たちがどんな演劇をやっているのかにも興味を持った。
公演会場は早稲田大学の学生会館の地下二階にある40人ぐらい入る教室ぐらいの広さの部屋だ。観客は20名ほど。新型コロナウイルス蔓延下ということで完全予約制になっていて、座席間隔はゆったり取ってあった。開演前から会場は暗くて当日パンフレットは会場内で読むことができなかった。作品についても、作者についても私は事前の知識はなかった。戯曲の日本語訳があることを公演が終わってから知った。
舞台上には簡素なベッドが三台並べられていて、上手側のベッドはカーテンで隠すことができる。素っ気ない舞台美術は病院の大部屋を連想させる。
さて公演だが、これは予想していたよりはるかに素晴らしいものだった。隅々まで神経が行き届いたシャープで洗練された舞台ではなかった。舞台上での俳優の動きや小道具の使い方が不器用でぎごちなかったり、観客正面を向いての単調な語りが多かったりして、ちょっとひっかかりを感じたところがないわけではない。その場、その場での人物の心理を反映させることを意図したのであろう照明の切り替えも、チカチカするだけでそれほど効果的には思えない。劇の状況や人物関係のあり方も不明瞭なままで、最初のうちはフラストレーションを感じた。しかし俳優もスタッフも、この一筋縄でいかない重い戯曲と真摯に格闘し、演劇表現としての高みを目指そうとする気概が感じられる舞台だった。字幕は後ろの暗幕に模造紙ほどの大きさの紙を貼り付けて、それにプロジェクタに投影するというもの。見栄えはよくないが仕方ない。字幕を出すタイミングと字幕の分量はよかった。
劇中の時は、ソ連のアフガニスタン侵攻で多くの西側諸国が参加をボイコットしたモスクワ五輪が行われた1980年に設定されている。オリンピックは国家的威信を賭けて開催された壮大な政治的茶番となった。病院の大部屋を思わせる舞台空間は、この空虚な華やかさか、排除され、悲惨な日常を送る娼婦たちの寝床だ。女装の俳優一名を含め、この劇の主人公である三人の娼婦を演じた俳優たちの演技が素晴らしかった。娼婦を演じるという覚悟が彼らの芝居にはあった。官能的で、どこか壊れていて、悲痛で、愛おしい。あの希望なき日々を送る娼婦たちの複雑で屈折した葛藤を三人の娼婦役の俳優から感じ取ることができた。
おそらく観客の多くが自分たちの友人である学生演劇において、芝居の中での必然はあっても、自らの官能的な姿を晒すのには相当な覚悟が必要となる。多くの学生演劇はそこまで踏み込むことができない。コンツェルトの公演ではあえて『夜明けの星たち』という学生が演じるにはハードルの高い作品を選択し、しかも本格的な演劇公演として提示しようとする姿勢に感心した。またロシア語で上演することによって、劇中世界の説得力が増し、俳優の演技もよりリアリティが感じられるものになっていた。日本人学生が日本語訳で上演すると、あの状況はもっと空々しいものになっていたかもしれない。