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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

舞台 幕が上がる

www.parco-play.com

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映画『幕が上がる』の後日談。「学生演劇の女王」と呼ばれていた吉岡先生の指導で、地区大会を突破し、県大会に進出した富士ヶ丘高校演劇部だが、指導者の吉岡先生は演劇部指導の過程で女優への意欲が蘇り、プロの女優として舞台に復帰するために、教師をやめてしまう。吉岡先生がいなくなったあと、部長のさゆりを中心に女の子ばかりの演劇部員は県大会を目指して稽古を再開するのだが、という設定。

 

青年団の芝居のように、開演前の舞台に既に俳優がいて、すでにゆるゆると芝居をしている。しかし青年団よりもっと自由にアドリブを入れて遊んでいる感じがある。今日は映画でガルルの祖父役を演じた笑福亭鶴瓶が舞台に上がり、一年生部員役の女優二人を相手にかき回していて観客を楽しませていた。本編開演後は鶴瓶師匠は私のすぐ斜め前の椅子に座って観劇していた。

関西出身の私にとって、鶴瓶は中学時代の私にとってのスターだった。当時は鶴瓶は東京に本格進出しておらず、関西ローカルの人気タレントだった。放送作家の新野新鶴瓶のふたりでやっていた深夜ラジオ番組「ぬかるみの世界」は、関西のちょっとマニアックで屈折した若者のあいだで人気があり、私も愛聴していた。斜め前の椅子の鶴瓶を後ろから見て、こんなことを思い出す。

 

舞台『幕が上がる』は、冨士ヶ丘高校演劇部がコンクールで上演する『銀河鉄道の夜』の稽古場面を軸に展開していく。『銀河鉄道の夜』の死による友との別れという主題が何回か反芻され、この主題がそれを演じなくてはならない演劇部員たちのやりとりのなかで徐々に深化されていく。死と別れという深刻なテーマを、舞台で虚構として提示することで、彼女たちは真正面から向き合あわなくてはならなくなる。考え、議論することで躓き、立ち止まりながら、彼女たちは大人へと成長していく。

 

うまい脚本だけれども、登場人物があまりに優等生的過ぎるようにも感じる。部長役のさゆり(百田夏菜子)は演出担当としてダメ出しを行うが、作品や演技の解釈であそこまで明確に責任を持って判断を下すことのできる演出家はプロでもそうそういないように思う。平田オリザならできるだろうけれど。高校生演出家のふるまいとしては不自然に私は感じた。ダメ出しするために芝居は確実によくなっていたけれど。

 

ももクロのための演劇であり、観客の大半も彼女たちのファンであることは当然想定した上で、作品を作らなければならない。彼女たちの見せ方と劇作品としてのバランスの取り方が難しいが、このバランスについては映画の脚本のほうがよくできていたように思った。映画では部長のさゆりの語りを中心に描き出すという選択をとることでももクロリーダーの百田夏菜子がクローズアップされていたが、さゆりの視点からバランスよく他のメンバーの個性を提示されいた。平田脚本による舞台『幕が上がる』では核となる人物を設定しなかったため、物語の求心力が弱まり、散漫になっていた。ももクロ各人のメンバーの見せ場を作るという劇作上の仕掛があからさまで、それが今一つ有機的に展開にからんでいかなかったので見せ場の印象も弱くなってしまっていたように私は感じた。ももクロのメンバーの舞台演技はまあまあ。高城れにはもっと遊んで、笑いを狙ってもよかったように思ったが。一年生役の喜劇的なキャラクターを演じた伊藤沙莉の芝居がよかった。あとやはりコミカルなキャラクターの坂倉花奈も個性的で印象に残ろう。井上みなみももっと活躍させればいいのにと思った。

 

幕が上がる前の前芝居こそ青年団演劇のパロディとなっていたが、本編のほうは平田オリザならまずやらないような無造作な暗転による場面転換、BGM音楽の使用がある。本広克行の演出には繊細さが乏しい。彼が演出するとのっぺりとした記号的、通俗的な味わいの作品になってしまう。映画『サマータイムマシン・ブルース』も、ヨーロッパ企画の舞台版オリジナルの緻密さを思うと、大味で雑だ。平田オリザなどの丁寧で緻密な演出への憧れと敬意はあるのだろうけれど、本広克行の資質はこうした作品には向いていない。商業主義的でより一般に開かれた作品では、本広克行ぐらいがさつなほうがいいのだろうか?

 

ももクロという国民的アイドルと平田オリザを結びつけたのは本広克行の偉大な功績であり、この意外な結びつきがゆえ、映画、舞台ともいわゆるアイドルによる消費作品とは一線を画すレベルのものを作ることができた。しかし本広克行ゆえに、想定された以上の佳作にはならなかった。プロデューサーとしては偉大だけれど、演出家としては、その俗っぽい感性と粗さゆえに私はまったく評価できない。

 

平田オリザの世界の映像化といえば、『ほとりの朔子」他、何編かの見事な青年団映画を作っている深田晃司が最適だと思うのだけれど、あのひねた感じ、ニヒリズムは、ももクロ的な世界観とは相容れないだろう。

 

舞台『幕が上がる』でよかったのは、最後に上演された劇中劇『銀河鉄道の夜』の場面だ。演劇部の日常の稽古場面から、劇中劇へと移行していく展開は秀逸だった。そしてそこで演じられた場面でのジョバンニ役の玉井詩織のモノローグが見事だった。この場面については平田オリザが演出した青年団の『銀河鉄道の夜』よりもはるかに感動的だった。平田オリザの子供向け作品はいくつかあるが、私はいずれも評価できない。彼の子供向き演劇はよく研究されているけれど、そこに反映された子供観、子供演劇観は保守的で型にはまったものだ。平田のよさが、小手先のテクニックとしてしか利用されていない。子供向きとは明示されないが、子供の観客も想定した柴幸男の作品や平原演劇祭の高野竜の作品と比べると、平田の子供向き演劇の発想の貧困さは明らかだ。平田版『銀河鉄道の夜』も私はまったく面白いとは思わなかった。舞台『幕が上がる』も、劇作状の仕掛、作為性、戦略が全面に出過ぎていて、平田の戯曲としては出来がよくないように思う(平田の最近の作品はこうした仕掛があからさますぎる作品が多いように思う。そしてその多くは舞台芸術作品として成功していない)。

 

舞台『幕が上がる』の劇中劇『銀河鉄道の夜』が感動的だったのは、玉井詩織の演技ゆえだろう。あの部分だけは玉井の語りによって、劇内世界へと引き込まれてしまって、感動した。『銀河鉄道の夜』がこんなに切なく、悲しく、美しい物語だったことに気づかされた。劇中劇の終了がそのまま外枠の『幕が上がる』の結末と重なり、カーテンコールになるという幕切れは素晴らしいアイディアだと思った。