篠田節子(講談社文庫,2002年)
評価:☆☆☆
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女性性を感じさせない骨太の充実感のある物語の書き手ながら,とらえどころのない篠田節子の二番目のエッセイ.先日読んだ最初のエッセイより,狙い所が定まっている.エコロジー,フェミニズムに関わる問題を大上段から原則論で語ることを徹底的に避け,自分の確認できる日常から出発し社会の現実と常に突き合わせる姿勢を忘れない.市民運動的な教条主義に陥らぬように,あくまで個人的な足場でじくりと腰をすえて語っているところに好感をもつ.「自分の今生きている状態に不満や,焦りや,疑問を持っている人,上昇志向や野心を持っている人.そうした不満や焦燥感の解決を求めて,的外れではあっても奮闘努力している人.あげくにいつも尻餅着いたり,空回りしてしょげる人」に向けて書かれたエッセイだとか.
今の自分がまさにそういう人であるように思える僕にも勇気づけられるメッセージがいくつかあった.自己評価を気にして必要のないストレスをため込む.人間関係で仕事をしようとし義理としがらみに縛られる.創作以外の部分で余計なエネルギーを使う.人間関係以外に関心の向けようのない閉塞した横並び社会の典型である学級の法が,はるかに抑圧感に満ちている.
コネ社会でくだらない誹謗中傷や権力ある人物への露骨なとりいりが横行する大学内社会ではあるが,そうした閉塞した社会であるからこそこそくに政治的に動くことに神経を使うのは己を消耗させるだけなのかもしれない.評価されるかもしれないし,されないかもしれない.こつこつと自分のできることをやっていくだけだ.