- 場所:千駄ヶ谷 国立能楽堂
- おはなし:茂山千三郎
- [狂言]仏師
- 出演:丸石やすし、松本薫
- 評価:☆☆☆
- [能・喜多流]紅葉狩
- 出演:粟谷能夫、森常好 他
- 評価:☆☆☆
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昨月末のク・ナウカ公演で能楽の話を聞いたことで好奇心を刺激され、学生料金で安く観ることのできる国立能楽堂の公演のチケットを予約。定例公演のほうも見たかったのだがそちらは満席でチケットは売り切れだった。
古典としての能楽を鑑賞するのは今回が初めてかもしれない。観てみたいとはかなり昔から思っていたのだが、日本の伝統芸能とはなかなか縁がなかった。研究対象としては現代ではまず上演される可能性のない西洋中世演劇でしかも文献学的なスタイルの研究ではあるものの、歌舞伎・能楽といった日本の伝統芸能にこれまで足をほとんど運ぶことがなかったというのは全く怠慢で恥ずかしいことだ。独自の洗練された様式性を持つこれらの前近代的な舞台芸術は、西洋演劇にしかこれまでふれてこなかった僕にはとても新鮮である。西洋人の演劇愛好家も僕とほとんど同じような感覚で、これらの舞台を観るのではないだろうか。
今日は子供のための夏休み公演ということで、親に連れてこられた小学生・中学生の姿が目につく。普及公演ということで最初は30分ほど茂山千三郎氏による能楽の基礎知識の解説があった。茂山氏が手を挙げさせたところ今日の観客の半分ほどは能楽初体験だった。茂山氏の解説は手慣れた感じで軽妙で話のリズムもいい。冗談なども交ぜながら、能と狂言の「型」の表現について実例を示しながらテンポよく話す。ただし歌舞伎鑑賞教室のような手の込んだ仕掛けはないのが物足りない。茂山氏の話のあと、そのまま狂言『仏師』がはじまる。40分弱の作品。実にたわいのない話だが、現代のコントでも使われるような普遍的な笑いの型がリズムよく示されていて、かなり受けていた。ただ笑いとしてはいかにも毒に乏しく、僕にはかなり物足りなく思われる。狂言の笑いは中世のファルスと比較されることもあるが、今日見た感じではファルスよりはるかに様式性が高い、「型」にはまった笑いのように思われる。狂言のあと、20分の休憩を挟んで、能『紅葉狩』がはじまる。観世小次郎信光によるこの作品は、世阿弥の幽玄味あふれる難解な作品とはちがって、ショー的な要素を取り入れた大衆的な作風だと解説にあるが、お話のテンポのたるたるとした遅さ、そしてほとんど硬直しているのでないかと思われるような重々しくゆったりとした演者の動き、お経のように延々と続く謡の伴奏に、80分ほどの上演時間のうち、20分ほど意識を失う。おそるべき退屈さ。この退屈さがスリリングな鑑賞のよろこびに変わるときがいずれくるのだろうか。まだ僕に比べると小学生のほうが我慢強い。眠らずにじっと舞台を眺めている子供は案外多い。舞台上の約束事に通じるようになれば、あの緩慢極まりない筋の進行と役者の動きのなかに、感覚的な歓びを見いだすことができるようになるのだろうか。そもそもあそこまで様式化が進むと、演者による個性の違いなど表現しうるのだろうか? 舞台装置はどこでも同一だし、謡も変わるわけではないし、アル程度訓練を受けた演者なら誰がやっても同じようなものが提示されるような気がするのだが。
国立能楽堂のいすは案外座り心地がよく、単調な謡の旋律を子守歌に、心地よく眠りにおちることができた。今日の曲では舞台上の平維茂も戸隠の山中で、鬼女の舞を観ながら酔って眠りこけてしまうのであるが。短時間ながら案外深く眠ったらしく、目が覚めたらすっきりしていて、最後の鬼女のテンポのある舞はかなり楽しんでみることができた。しかしいかに解説付きとはいえ、能楽は歌舞伎に比べるとはるかにハードルが高いように思う。いくら解説に工夫をこらしても、一時間半ほどの時間、能の演目につきあうにはかなりの「修行」が必要であるように思うのだが。古典とはいえサービス過剰の大衆芸能たる歌舞伎に比べると、能はいかにも地味でしぶすぎる。いやこのハードルの高さゆえに、逆説的だが小学生ぐらいだったら案外審美的感覚的な面白さだけで受け入れることが可能な人が多いのかもしれない。『紅葉狩』は歌舞伎に翻案されている。歌舞伎で能の表現がどのように変換されているか関心がある。
このすさまじい退屈さも含めて様式を味わうものなのか。いずれにせよまた機会を作って、能楽の公演には出かけてみたい。
イヤホンガイドを今日は借りたが、情報量が少なすぎてほとんど意味がなかった。