日本に西洋演劇を導入し「新劇」として定着させ、築地小劇場を立ち上げた小山内薫については名前は聞いたことはあったけれど、その作品は読んだことも観たこともなかった。明治・大正期の演劇運動は、近代日本が時に苦悶しつつ受容し、知識人が獲得した西洋世界の姿を、舞台という具体的な表象の形で確認することができるという点で興味深い。『息子』はイギリスのハロルド・チャピンの『父を捜すオーガスタス』の翻案。原作者のチャピンについては名前も聞いたことはないが、当時はよく読まれた作家なのだろうか。
「息子」は1922年に発表された翌年、歌舞伎役者によって帝劇で上演されている。巧みな翻案で舞台は江戸時代の火の番小屋に移されているが不自然は感じない。ただしその舞台設定や人物にもかかわらず、全く「歌舞伎」的ではなく新劇風の作品。初演後は、新劇や大衆演劇でも上演されたようだ。第二次大戦後の歌舞伎俳優による上演はこれが九回目と多くはない。
「息子」は小山内の代表作とされるが、正宗白鳥が指摘するまでもなくたかだか九年ぐらい会わなかったぐらいで親子が互いに認識できないという設定は、いくら「芝居」とはいえ、作品が新劇風リアリズムで表現されているから余計に、無理があるように思える。互いにはじめてみたときから親子と認識しながら、息子は堕落した己の身を恥じて、父親はそうした息子の気持ちをくみ取って、しらじらしく他人の演技を続けたまま会話のやりとりをするという演出のほうが説得力があるように思うのだけど。
最後に息子が退場する際の「ちゃん」という万感の思いを込めた呼びかけの悲しさがこの芝居の肝となる部分。この「ちゃん」という一言のためだけに作られた設定でありお話であるように思った。
やさぐれた遊び人を演じる染五郎、こうしたちょっとひねくれたところのある気取り屋がうまく染五郎の雰囲気と合っているように思う。信二郎もいい。どんな役をやってもすっとはまってしまう器用な感じがある役者だと思った。