http://www.ntj.jac.go.jp/performance/7.html
人形浄瑠璃がその創作力を失いつつあった時代の最後の傑作。浄瑠璃初演の翌年に歌舞伎に翻案される。原作は全十三段の構成で、本能寺の変から山崎の戦いにおける光秀の敗北までが扱われているそうだが、通常は第十段の「尼ヶ崎閑居の場」のみが演じられる。この段は「太十」と呼ばれ、文楽でも歌舞伎でも人気のある狂言となっている。
本公演では通し狂言として、十三段のうち五段を選んで再構成したもの。大詰に「太十」を置く。上演時間は30分、15分、10分の休憩を入れて、四時間二十分。
武家物特有の雰囲気と見所の豊富な、満足度の高い充実した内容の公演だった。団十郎休演で急遽光秀を演じることになった橋之助も存在感を発揮し、美しく堂々とした見得の姿が目を惹きつける。
ただしお客さんは八割の入りで空席が目立つ。
『忠臣蔵』同様、人物名を織田信長を尾田春長、明智光秀を武智光秀、羽柴秀吉を真柴秀吉と姑息に変更することで、物語の「虚構性」の口実としているところが可笑しい。今日的感覚では史実のパロディである。
四幕五場のうち、序幕の二場「二条城配膳の場」、「本能寺の場」、そして大詰の「尼ヶ崎閑居の場」が見応えを感じる。二幕目および三幕目は、長さも三十分弱、見所の少ない地味な場で、蛇足の感あり。見所満載の序幕と大詰との緩急をつけるという点ではよかったのかもしれないが。昼食後ということもあり二幕目、三幕目は眠気も断続的に襲ってきた。
序幕の「二条城配膳の場」の幕開けの舞台の美しさにまず引込まれる。この場面だけで観に来てよかったと思った。国立劇場大劇場の横長の舞台一面に金張りの襖の鮮やかさに目を奪われる。そこにきらびやかな衣裳の武将、公家がずらりとたちならび、しばらくの間は義太夫が場面を語るも、その場に人形のごとくじっとしている。幕が完全にあいて、義太夫の語りが一段落すると、息を吹き込まれたかのように動き、しゃべりだす人物たち。鮮烈な印象を観客に与える演出だった。
序幕の第二場「本能寺の場」も、森蘭丸を中心とする多人数での激しい立ち回りは、歌舞伎の様式美を存分に味合わせてくれた。
大詰は、文楽・歌舞伎での人気場面だけあり、見せ場に富む一時間四〇分だった。陳腐といえば陳腐なのだが、夫婦愛、親子愛と武士の誇りの葛藤の緊張感が悲劇的なクライマックスを生む。劇的な葛藤へと導くためのいかにもご都合主義な展開もまた心地よし。古典作品の思わず「つっこみ」を入れたくなるような脇の甘さがまた面白いのだ。母と息子の死に立ち会う光秀の慟哭の表現は、演出過剰がこっけいであると同時に力強い感動と様式美の心地よさを味あわてくれる。
幕切れに秀吉と光秀が山崎の戦場での再会を約束して別れるなど、茶番もいいところだが、こんな大らかさが心地よい。満腹感のある濃厚な芝居だった。
プログラムの中にあった児玉竜一氏の文章、歌舞伎古典作品の上演時構成の融通無碍、柔軟性についての言及が興味深い。『絵本太功記』についていえば、明治年間までは、『絵本太功記』でよく演じられる第十段,俗称「太十」に,光秀の悲劇を扱った全く別の作品をあたかも続き物のように組み合わせる上演も珍しくなかったとか.浄瑠璃の原作との照応で言えば,オリジナルの義太夫に近いものほど「良い」といった原典主義的な考え方は,歌舞伎の義太夫狂言では必ずしもあてはまらない.「上演史の中で歌舞伎が新たに発見してしまった魅力は,捨て去ることができない」.
表題の不思議。『絵本太功記』というタイトルながら実質的な主人公は光秀.この作品に限ったことではないが,歌舞伎作品の表題は必ずしも内容の要約とはなっていない場合が多く,西洋の文芸のタイトルとは,その機能,命名の原則がかなり異なるように感じられる.