閑人手帖

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アンジェラ・バーク『塩の水のほとりで』

塩の水のほとりで

塩の水のほとりで

  • 作:あんじぇら・ばーく
  • 訳:渡辺洋子

評価:☆☆☆☆☆

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著者はアイルランド人の女性作家。アイルランド語文学の研究者でもある。訳者はアイルランドの伝承文学の研究者。

17編の短編小説集。灰色と水色と緑の風景、アイルランドの空気が各編から強く香り立つ郷愁に満ちた短編集だった。小説の時代は現代、各小説の語り手、主人公はいずれもアイルランド女性である。各編に登場する女性の年代は異なるが、いずれも作者の分身であることは言うまでもない。しかし彼女たちは作者の分身という特定の存在であるよりも前に、不定冠詞とともに提示される、任意の、不特定の一アイルランド女性の姿でもある。

彼女たちは運命に身を任せ、アイルランドの風土と一体となったように、自然に生きる。その生き様は幸福感にあふれているわけでもないし、かといって不幸に沈んでいるようにも思えない。各編がもたらす深く静かな余韻にはどこかひとの心を不安にさせるような影が感じられ、そこで描かれる世界は寡黙で静謐でありながら、えも言われぬ強い感情を読み手の心のなかに生み出す。各編を読み終えるころには、各編の主人公のそばによりそって、彼女たちのその後の平安を祈らずにはいられないような気分にさせる。


17編のうち、6編はウナという名前の11歳の少女のエピソード。ウナの物語は作品集の中盤に一つおきに並べられている。その他の小説には10代後半から40代ぐらいの様々な女性が登場する。ウナの物語は彼女たちの過去の回想のように配置されている。

『塩の水のほとりで』というタイトルの物語は17編にはない。この17編の総称としてこのタイトルはある。「塩の水」とは、作品中で何度も言及されているアイルランドの海、そして涙やその他の塩分のある体液のことだと、作者はまえがきで説明する。各編の女性たちの物語はアイルランドの風土と「塩の水」を通じて統合される。

一編一編読み進めていくのが惜しい気分になるような、いとおしさと郷愁に満ちた短編集だった。アイルランドの精神性が「女」というアレゴリーを通してじわじわと現れ出る。その淡彩画のようにあっさりとした記述の重なりは、思いのほか深淵で豊かな余韻を読者の心に残す。