閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

屋根裏 Le Grenier

http://2009-2010.theatredurondpoint.fr/saison/fiche_spectacle.cfm/75398-le-grenier.html

  • 作:坂手洋二
  • 翻訳:Corinne Atlan
  • 演出:Jacques Osinski
  • 音楽:Dayan Korolic
  • 照明:Catherine Verheyde
  • 美術:Lionel Acat
  • 衣裳:Christophe Ouvrand
  • 出演:Vincent Berger, Elisabeth Catroux, Frédéric Cherboeuf, Agathe Le Bourdonnec, Alice Le Strat, Pierre Moure, Remy Roubankha, Stanislas Sauphanor, Dayan Korolic
  • 劇場:Théâtre du Rond-Point salle Jean Tardieu ロン=ポワン劇場(ジャン・タルデュー・ホール)http://www.theatredurondpoint.fr/
  • 上演時間:1時間45分
  • 評価:☆☆☆★
  • チケット代:30.80 euro FNAC Spectacleにて購入。
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坂手洋二の『屋根裏』がフランス人の演出家・役者によって約一ヶ月の長期公演中だった。私は数年前に狭苦しい梅ヶ丘のスタジオでこの作品を見ている。燐光群の作品のなかで最も好きな作品だし、私が小劇場観劇にはまるきっかけとなったのがこの作品だった。フランス人の演出家と役者が、日本社会の様々な閉塞的側面を象徴的に描き出したこの作品をどのように解釈し、提示するのか、またフランス人の観客がこの個性的な作品に対してどのような反応を見せるのかが知りたかった。

上演が行われるロン=ポワン劇場はシャンゼリゼ通りのややコンコルド広場に近い地点、凱旋門を背にして右手にある。かつてジャン=ルイ・バローが本拠地にした劇場だという。750席の大劇場と180席の小劇場の二つのホールのほか、演劇関係の書籍やDVDが揃った書店(『屋根裏』のフランス語版も平積みされていた)とシックなレストランが併設されている立派な劇場だった。現代作家の作品が主に上演される劇場だとのこと。『屋根裏』は小劇場で行われた。舞台の間口がかなり広い(20メートルぐらいあったように思う)が奥行きは狭い坂手洋二の名前はパリでは知る人がほとんどいないはずだが、劇場や演出家の実績によるものなのか、役者の魅力ゆえか、一ヶ月ほどのロングラン公演にもかかわらず、客席はほぼ満席だった。

さて芝居の感想だが。うーん、長く感じた。上演時間は1時間45分だったので、おそらくオリジナル版よりもだいぶ刈り込まれているはずなのだが。日本で見たときもだらだらいつまでも続く感じのある芝居ではあったけれど。
冒頭の30分は新鮮だった。屋根裏という特殊空間を使って、多角的に日本社会の様相を描きだす手法の独創性に改めて感心した。しかしフランス語版では各場面の展開のリズムが単調だったためか、緊張感が途切れ途中で飽きてしまったのだ。屋根裏キットは日本では役者が身体をまるめてぎゅうぎゅうに押し込まれるような感じの狭苦しく窮屈なものだったが、フランス語版のキットは日本のものに比べるとかなり大型だった。腰をかがめなくてはならないものの、若干狭苦しい屋根裏部屋という感じでそれほど窮屈な感じがしない。六畳間ぐらいの広さはありそうだった。屋根裏の訳はgrenierだが、grenierは天井裏の倉庫、穀物置き場をフランス語では意味する。おそらくフランス語のgrenierが示す空間は、日本語の「屋根裏」よりも広々したものであるために、屋根裏キットも若干大型化してしまったのではないだろうか。

フランス人演出家が今ひとつ坂手戯曲に踏み込んで解釈することをためらっているような感じがした。誠実で丁寧な演出だったと思う。日本社会の病的な面をエキゾチックに、グロテスクに強調するような意地悪なケレンのない演出だった。異質な存在としての日本社会の強調というのはやればフランス人観客には受けそうな気がしたのだが。上品でそつない芝居であったが何か物足りない。坂手版のオリジナルには社会風刺とユーモアの奥に何とも言えぬ不気味さ、ぎょっとさせるような異様さ、息苦しさを私は感じたのだけれど、フランス版にはそういうえぐみが乏しい。現地の劇評をいくつか読んだ限りでは、あの舞台からそうしたグロテスクは読み取られているようだったが。

劇評がいくつも出ていて、私が見た限りでは絶賛に近い好意的な評が多いように思った。とりわけ演出家の手腕を評価する評が多かった。しかし私の見た印象、また観客の反応ぶりを思うと絶賛されすぎているような感じもした。フランス人観客はおおむね日本の観客よりも好意的で熱い反応を示すことが多いが、『屋根裏』の観客の反応はそれほど熱いものではなかった。フランス人観客の多くも私同様、後半以降は展開の単調さに多少うんざりし、疲れたような雰囲気があったように思う。
私が読んだいくつかの劇評のなかでは、とある劇評サイトに紹介された以下に翻訳・引用する評がフランス人観客の一般的反応を代弁しているように感じられた。評者は作品、舞台を評価しつつも、彼女が感じた戸惑いを正直に表明している。

独創的な演劇的創意に富み、社会的なメッセージを持つ坂手作品が海外で紹介される意義は大きい。理屈っぽく議論好きなフランス人観客に、彼の作品は格好の話題を提供するのではないだろうか。この上演が彼の他の作品の紹介の契機となればいいなと思う。そしてできれば坂手自身の演出による「本物」の舞台をフランス人観客にぶつける様子を見てみたい。

『屋根裏』日本風のブラック・ユーモア

2010 年3月15日14:57分
坂手洋二『屋根裏』、パリ、ロン=ポワン劇場(劇評ファブリス・シェーヌ)

『屋根裏』は日本の戯曲であり、そこ扱われるのは日本的な主題である。しかしこの戯曲を演じるのはフランス人の俳優だ。「引きこもり」問題は日本社会が実際に抱えている問題の一つである。現代の若きロビンソン・クルーゾーである「引きこもり」たちは自分たちの家に閉じこもり、完全に自足した生活を送ることで息苦しい社会から逃れようとする。一様であると同時に多様な様相を持つ屋根裏のなかで展開する数多くの場面は、奇妙で、意外性に富み、われわれをぎょっとさせる。

 この作品を独創的なものとし、成功させている要因として何よりもまず舞台美術を挙げなくてはならない。役者たちは組み立て式の屋根裏キットのなかにほとんど入ったままである。この屋根裏キットがいわば作品の主人公なのだ。この屋根裏の大きさは美的に計算されたものであり、その不均衡な形態は絶妙だ。人がその中で立つには少々天井が低すぎる。屋根裏には外界への出入り口がいくつか空けられている。窓が一つがある他、天井には開閉式小窓が一つ、それから出入り扉。さらに揚げ蓋の出入り口がいくつかある。出入り口についてはこれくらいでいいだろう。屋根裏は可動式で持ち運び可能なのでバルコニーや地下に設置することもできる。劇作家の優れた筆力は屋根裏の様々な場景を描き出している。若い娘は屋根裏を小屋代わりに使っているし、ハイキングをする人にとっては屋根裏は避難場所になる。

■社会から疎外された人々の肖像
 筋立ては周到に構築されている。自殺した若い「引きこもり」の兄がこの屋根裏の製造者を探し始める。芝居の終盤で兄は製造者をようやく発見する。その間、いくつもの小芝居、ミニドラマが繰り広げられる。そこでは社会から疎外された人々の諸相が描き出される。ホームレス、若い娘を監禁する変態男、途方に暮れる青春期の若者たち。滑稽であったり悲劇的であったりするこれらの生活の断面には、多かれ少なかれ真実らしさが含まれている。軽やかな極めて現代的な雰囲気で、こうした断片は演じられる。巧緻な照明の技によって、一つの場面から別の場面へと、我々の目の前でこの屋根裏は変容する。屋根裏は常に同じ空間であると同時に、常に別の異なる空間として立ち現れる。
ひきこもりの特徴は世界の拒否である。世界の拒否こそ彼らにとっては攻撃的な社会から逃れるための手段のひとつなのだ。この意味で坂手の作品は文明批判の意図を持っている。坂手洋二は数多くの劇作品を発表している作家であり、国内でいくつもの賞を受賞している。彼は時代をスキャンし、過剰と狂気を感じさせる表現によって時代の姿を明るみに出そうとする日本人作家のひとりだ。彼の作品にはそれゆえ日本社会に対するメッセージが豊富に含まれている。正直なところ、作品に含まれるいくつかのメッセージはあまりにも省略的な表現だったため、われわれには理解できないものもあった。またどんなに優れた翻訳であっても、異文化間にある距離は意識せざるをえない。引きこもりは日本特有の現象ではないかもしれないが、フランス人観客であるわれわれは、作品を見ながら、時に興味深い人類学的調査に立ち会っているかのような印象を持つだろう。

■ユートピアとしての子宮
 舞台で提示される状況の多様性と独創性もまた奇妙な印象を生み出す源になってる。このスペクタクルには意外性が計算された上で配置されているのだ。作品のなかでわれわれは時間を超えて旅する。サムライの時代に行ったと思えば、アンネ・フランクが舞台に登場する。その後には未来へと投げ出される。この大胆な劇作術の中では、詩情とブラック・ユーモアが競い合う。この屋根裏が担う象徴性はきわめて強力なものだ。そして死という主題がはっきりと打ち出されている。あたかもこのひきこもりへの志向が、ユートピアとしての子宮へと向かう退行現象と自己の消滅への欲望の両方を表象するものであるかのようだ。
 われわれが属する世界とまったく同一であるとは言えないこの世界に対して、そしてこの世界に住む登場人物たちの運命に対して観客が関心を持つことができたのは、役者たちの演技力のおかげだ。熟練した演技によって、彼らは多種多様で変化に富んだ役柄をしっかりと描き出した。彼らたちの演技によって本当に心動かされる場面がいくつかあった。たとえばある教授(アリス・ル・ストラ)が若い女子学生の精神的混乱を受け止めようとする場面は美しい。若い女子学生を演じたのはアガト・ル・ブルドネックだ。彼女は自分の演じる人物のもろさを非常に巧みに表現していた。音楽を担当したデヤン・コロリックについても言及しておかなければならない。舞台に演奏を行う彼は独創的かつ適切な音環境を作り出していた。

Fabrice Chêne
Les Trois Coups