閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

失われた時を求めて:第1のコース「スワン家の方へ」

三条会のアトリエ公演

「私たちがかつて知った場所、それを私たちは便宜的に空間世界に位置づけているが、そのような場所は実は空間世界に属していないのである。それらの場所は、当時のわれわれの生命を形作る互いに隣りあった印象のなかの、薄い一片にすぎなかった。あるイメージの追憶とは、ある瞬間を惜しむ心にすぎない。そして家や、道や、通りは逃れて消えてしまうのだ。ああ! ちょうど歳月のように」(プルースト/鈴木道彦訳「スワン家の方へ」)。

舞台上には、『失われた時を求めて』第一巻「スワン家の方へ」の末尾に置かれた上記のテクストが記された黒板が置かれていた。この長大な小説のレジュメのような一節だ。
そして奔放な想像力によって強烈なデフォルメが加えられ、ガラクタを詰め込んだおもちゃ箱のように混沌とした三条会版「スワン家の方へ」もこの美しい表現へと収束していく。ふとした瞬間に思い浮かぶ過去の懐かしい時間、しかしその想起された過去は決して現実ではない。我々は過去を想起するたびに過去が取り戻せないかけがえない時間ことを確認し絶望するのだ。

プルーストの研究者の数は非常に多い。現在のフランス文学研究のなかでもっとも研究者の多い作家だと思う。
フランス文学界の大メジャー作家なのだけれども、長大な『失われた時を求めて』の完読者の数はきわめて少数のはずだ。もちろんプルースト研究者は読んでいるはずだろう。しかしフランス文学専攻でも20世紀小説を研究していない研究者でこの作品を通読した人間はそれほど多くないと思う。という私も第一巻「スワン家の方へ」の最初の章、「コンブレ」しか読んでいない。大学院に入ったばかりのころ、講読会を友人たちとやったのだ。井上訳を参照しながら原文をゆっくり時間を掛けて読んだのだが、「コンブレ」を読んだところで息切れしてしまった。

実際、日本語でも読むのはかなり大変な部類だと思う。かつては井上究一郎訳が定番だった。正確な訳かもしれないけれど、散文的で面白みのない訳文でずっと読み続けるのはかなりの忍耐が必要となる。新しく出た鈴木道彦訳は井上訳よりだいぶ読みやすく、表現もやわらかくなっている。それでも全巻読み通すのはしんどいだろう。原文は華麗で繊細な修辞を重ねてセンテンスを連ねる息の長い文章だ。詩的で美しいテクストだけれどもフランス語としてもかなりやっかいですらすらとは読めない。鈴木訳は原文のリズムや雰囲気をできるかぎり平明な表現で伝えようとしている。描写の修辞を味わう文章なので速読には適さない。じっくりと腰をすえて文章を味わってこそ、悦びを得ることができる小説だと思う。

三条会公演をきっかけに全巻読破(翻訳で)をもくろんだのだけれど、腰を据えて『失われた時』に向かい合う時間を作ることができない。結局鈴木道彦編訳の上下二巻の抄訳版(全体の1/5ほど)の第一巻に相当する部分に目を通しただけになってしまった。全巻読破はまた別の機会に(うーん、あるかなあ?)。

失われた時を求めて(上)

失われた時を求めて(上)

いつもの三条会公演通りの独創的なテクスト解釈と奇想天外な仕掛で、強烈なデフォルメが加えられた舞台だった。そもそも三条会がフランスのブルジョワと貴族階級の世界を演じることが悪趣味な冗談のように思える。原作の記述をなぞりながらも、余り表現の歪みと奔放さに「?」の連続だった。しかし最後まで見ていると、その見かけの異様さと悪ふざけの数々にもかかわらず、作品の核となる部分は誠実にその個性的な舞台表現によって伝えている。
全7回の公演で『失われた時を求めて』の全編を演劇化するという壮大なプロジェクトだ。千葉はちょっと遠いけど、観客として全コースを完走したい。