ディディエ・ガラス
? アルルカン、天狗に出会う:SPAC 春の芸術祭2010
- 作・出演:ディディエ・ガラス Didier Galas
- 執筆協力・翻訳・字幕製作:大浦康介
- 舞台監督、照明、字幕操作:ジェレミー・パパン
- 上演時間:80分
- 劇場:静岡 舞台芸術公園屋内ホール「楕円堂」
- 評価:☆☆☆☆☆
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この演目については見る前までは全く期待していなかった。コメディア・デラルテなら「The」コメディア・デラルテ」みたいなものをやればいいのにと思っていた。ご当地キャラクターを取り入れ下手な日本語を交えて観客のウケを狙う中途半端で緩い舞台を実は予想していて今回の芸術祭詣での「おまけ」みたいに思っていたのであるが、とんでもない見積もり違いであった。芸の技術と志の高さ、脚本の発想の自由さに驚嘆する。こんな方向性でコメディア・デラルテの世界を発展させる発想があったなんて! 最初は疑いの目で斜から舞台を眺めていたのだが、始まって一〇分後にはその世界に引き込まれてしまった。
一人芸での舞台でコメディア・デラルテのような伝統的な様式が土台にあるのは強い。しかしガラスはその土台からの発展のさせ方が凄い。伝統的な演技の型やジャンルに対する観客の側のステレオタイプな視点を積極的に利用して、強烈にオリジナリティのある世界を作り出していた。たかが数度の日本公演のためにあそこまで練り上げられた日本語脚本を準備するというプロ根性にも感嘆する。演じられていたのはナンセンスなファルスだが、技芸と脚本の洗練によって、ほとんど文学的とも言えるような充実した味わいを楽しむことができた。フランスで中世に流行ったファトラス、ファトラジーという言葉遊びを駆使したナンセンス詩の世界を私は連想させる展開だった。いや彼が演じていたのは単なるファルスではない。型の笑いの技芸を効果的に取り込みつつ、その神話的起源から現代、将来における可能性まで、アルレッキーノの歴史を概観する知的かつ思索的なメタ・コメディア・デラルテでもあった。シンプルな舞台上でたった一人の芸人が、彼の持っている身体と声のあらゆる技芸を用いて観客を笑わせながら、壮大な演劇史を語っていることに私は感動した。本当に素晴らしいパフォーマンスだった。