池袋のカルチャー・センターの殿堂、西武百貨店の八階にある池袋コミュニティ・カレッジで四月から十一月にかけて隔週で開催される「青年団の演劇入門」に申し込んだ。一回三時間、全十五回で、最初の三回が平田オリザ、木崎友紀子、工藤千夏が担当し、残り十二回は田野邦彦が講師となって、ワークショップを行い、最後に発表公演を行うというもの。カルチャー・センター、それも演劇実技の、となると、申し込むのは気恥ずかしい感じもしたのだけれど、演劇の熱心な観客ではあるものの、作り手であったことがないがゆえに、自分も芝居を作るというのを体験してみたいという思いは前からあった。それにこの講座の講師陣が、自分が実際に芝居を観ている青年団の面々というのも魅力的に感じられた。
平田オリザおよび青年団関連の芝居が、自分の小劇場体験のなかでは占める割合は小さくない。平田オリザ氏の代表作と見なされるものはほとんど全て見ているし、田野邦彦氏が主催するRoMTの公演は二公演しか観ていないけれど、その二公演とも私にとっては非常に印象深い作品であり、二作品ともその年に私が見た演劇作品のベスト・テンに入っている。最初に見たストパード作の「the Real thing」については劇評サイト、ワンダーランドに劇評も投稿した。http://www.wonderlands.jp/archives/12313/。
私が見た二作目、マシュー・ダンスター作の「ここからは山が見える」は太田宏による一人芝居版が圧巻だったが、田野氏が指導する高校生によるリーディング上演にも心動かされた。そして上演そのものだけでなく、公演パンフのなかで田野氏が高校演劇指導を自分の演劇体験のなかで最も重要な経験のひとつだった、と記していたことも印象に残っている。この公演の後、ツィッターなどで田野氏が方々で行っているワークショップの様子を断片的なかたちであるが知り、彼が行う演劇ワークショップの内容にも少なからぬ関心があった。
私にとっては、この「青年団の演劇入門」は、自分が尊敬する演劇作品の作り手から、素人の私が演劇について直接、学ぶことができるという希有の機会なのだ。多少の気恥ずかしさと約五万円の受講料(決して高くはない。しかし今の私の経済状況ではかなり贅沢に感じられる金額である)にひるみながらも、申し込んでみることにした。
演劇ワークショップの類を受講するのは実はこれが初めてではない。三日程度だが世田谷パブリックシアターで行われていた教員向けの演劇ワークショップに参加したことがあるし、フランスでフランス語教育研修を受けたときも演劇を使ったプログラムを二週間受講したことがある。しかし前者の内容は指導者の誘導の技術やワークショップそのものの内容に満足できなかった。今日の平田氏の言葉を使えば、指導者と受講者のあいだの「イメージの共有化」がうまくできていないワークショップだった。初等教育の現場に演劇ワークショップ的な手法を取り入れるというのがテーマだったが、その導入の仕方は「遊戯」的な部分が強く、教育の実践と融合させるにはかなり無理が多いように感じられた。教育の場合は、やはり最終的には何らかの習得目標の設定とその達成が重要になる。単にやっている時間、楽しかったではダメだ。世田谷でのワークショップは、ワークショップでのさまざまな活動を教育目標とうまくリンクさせることができていなかったことに特に不満を覚えた。というか教育目標自体が曖昧であることに。
フランスでの語学教育プログラムのなかの演劇ワークショップは非常に面白かった。今日、平田オリザ氏が最初にやったような心と体をほぐすための数々のゲームの他、身体表現を組み合わせた詩の朗読やジャン・ジュネの『バルコン』の一部分を演出的発想を取り入れて丁寧に読み込んで、グループ毎に上演したり、美術館にあった絵からグループ毎に一枚選んで、その情景を活人画で表現させたあと、続きを考えるなど。各活動の背景にある理論なども学び、講習を受けた後は配られた資料を見直し、参考文献にあった研究書も読んでしっかり勉強しようと思ったのだけれど、結局、自分の授業実践などには生かすチャンスを見出すことができないまま、勉強も放置しておいたままになっている。
今回の「青年団の演劇入門」受講の動機の一つには、演劇を見る新たな視点を獲得したいという他に、自分の授業の組み立てのヒントをこのワークショップのなかに見つけたいというのもある。このような講座に出る人たちは、モチベーションは強いだろうが、そのバックグラウンドや目的は雑多で、生徒としてはかなり扱いにくい部類に違いない。またカルチャー・スクールで自腹で来ているだけに、「元を取れない」授業についてはシビアな反応を示すだろう。このようなやっかいな「生徒」たちをどういった手段で「踊らせるのか」。その手腕を観察し、自分の授業に応用できるようなヒントを見つけたいと思っている。あと、ワークショップのなかで自分に隠されていた役者の才能が顕在化し、舞台俳優として本格的にデビューする、という希望も、かすかながら持っていることは否めない。
前置きがだらだらと長くなってしまった。今日の平田オリザ氏による講習の内容をまとめておく。結論から言うと、予想以上に素晴らしい体験だった。正直、私は「平田オリザ氏が何を行うのか、むしろ批判的に観察してやろう」というかなり意地悪な気分で、今日のワークショップに臨んだのだ。演劇ワークショップをコミュニケーション・スキルの向上と結びつけて、その実利的な側面を強調しているかのような平田氏のいくつかの文章を読んだことがあり、反発を感じていたのだ。
今日は座学か中心になるのかと思っていたのだが、ワークショップ形式だった。いくつかの作業を通して演劇を体感するプログラム構成が秀逸だった。明瞭な説明になるほどと感心することが何回もあった。作業への誘導の巧さは名人芸だ。教育的であるだけでなくすぐれて娯楽的でもあり、その密度の高い内容に大いに満足する。いろいろな発見の面白さがあって、実に愉快な三時間だった。私は自分が教える立場であることもあり、あのプログラムを作るのに至るのに、平田氏がどれくらい準備をしたか、またどれほど多くの試行錯誤を重ねたのか、何となくではあるが想像できる。平田氏のワークショップ論、演劇論については、批判的な意見も耳にすることもあるのだけど、あの柔軟性に富んだ進行ぶりとプログラムの構成は見事としか言いようがない。例えばこれまで私は語学教育のスペシャリストという自他共に認める人から、参加型学習のワークショップを受けたことが何回かあるけれど、平田氏のそれはレベルが全然違う。語学と演劇で比べても仕方ないという見方もあるが、ある意味、教えるものについてのイメージが曖昧な演劇を素人に体験させ、満足させるほうが、語学を教えるよりはるかに難しいことであるように私には思える。
備忘録的に何を行ったか記しておく。作業の内容自体は、これまで読んだ平田氏の本などで紹介されていたものだったけれど、読むのと、自分が体験するのでは大違いだ。またこれが講師の立場で行うとなると、またさらに大きな違いがあるだろう。以下メモ書き。
まずは参加者の緊張をほぐさなくてはならない。参加者の多くは初対面で面識がない。講師との間にも緊張感がある。最初にやったのは「仲間作り」の活動。
「自分の好きな色」「好きな果物」「行ってみたい国」などを声に出して歩き回り、自分と同じ仲間を探しグループを作る。段段、グループが細かく分化されるように、お題が出されている。「行ってみたい国」では、孤立した人たちも多かった。平田氏は「なぜそこに行ってみたいのですか?」などと質問し、参加者との関係を作っていく。
次に行ったのは、ちょっと曖昧だが、番号札を使ってペアを作るゲームだったように思う。1から50までの番号が書かれたカードを各自に配る。受け取った番号は他の人に見せてはならない。「いちばん大人しく穏やかな趣味を1,最も激しくハードな趣味を50として、自分の番号とうまく合いそうな趣味を考えて下さい。そして歩き回って、他の人に趣味を聞いて下さい。いろいろな人に聞いて、同じような番号だなと思ったら、その人とペアになって椅子に座って下さい。椅子に座ったらもう他の人とペアを組むことはできません。ペアの番号が一番近い者同士が優勝です」という指示が与えられる。人生の選択同様、あまり急ぎすぎてもだめだが、のんびりしているとどんどん他の人が椅子に座るので選択肢が狭くなってしまう。カードを使った二番目のゲームは、「何かを作る工場で働いていると思って下さい。最も小さいものを作っている工場が1、巨大なモノを作っている工場を50とします。互いに作っているものを尋ね合って、ペアを作りますが、合計が50に近いペアが勝ちとします」という指示が与えられる。このゲームでは同じ指示をもとにしているにも関わらず、各人が抱くイメージがしばしば大きく異なることが明らかになる。
次に行ったのはジェスチャーを伴うゲーム。二人組になって互いに背中合わせに座る。互いの背中を支えにして立ち上がる練習。これは二人の息を合わせないとスムーズに立ち上がることはできない。次に二人組でキャッチボール。ジェスチャーによるキャッチボールと、実際に柔らかい球をつかったキャッチボールを交互に行い、二つの違いについて考えさせる。さらに長縄跳びを飛ぶ真似をさせる。縄跳びを使ったジェスチャーのほうがキャッチボールよりリアルに再現できることを確認する。つまりキャッチボールよりも長縄跳びのほうが、集団のイメージを共有しやすい。その理由を考えさせる。
演劇を作っていくには、役者がそれぞれ持っているばらばらのイメージを複数の役者のなかで共有していく作業を行わなくてはならないことを説明。しかしそれが縄跳びのように誰でも共有しやすいものだと芝居にはならない。むしろ人間の心の動きなど、共有しにくいモノが舞台上で共有され、表現として提示されることでドラマが生まれる。そしてその共有の条件を作り出すのにはどういう工夫が必要か考えさせる。リアルな状況の再現には、人物の心情を想像するだけでは不十分。そうではなくて、ある台詞が自然に聞こえるための条件について考察し、その再現のイメージが演者の間で共有されることが必要となる。
平田オリザ作、内田百輭原作『阿房列車』の一節が配付される。男女二人が列車内のコンパートメントで会話していると、そこに二人とは面識のない三人目の女性がやってきて同席するという場面。先に座っていた乗客の一人が、後から来た女性に「旅行ですか?」と尋ねる。この「旅行ですか?」を自然に述べるにはどうしたらよいのか、グループ毎に考え、後で上演させる。そして各グループごとに上演。これが見ていておかしくて堪らない。各グループとも、自然でありながら、できるだけ他のグループが考えつかないアイディアを出そうと智恵を絞った結果なのだけれど。全グループの上演が終わったところで、平田氏がその一つ一つについて講評。的確かつユーモラスな指摘に、ワークショップ会場の雰囲気が和む。
各人がバラバラな状態から、参加者全員のイメージが共有できる場を作っていき、ドラマを成立させる、という平田氏の演劇作りの骨格についていろいろな作業を通して説明しつつ、まさにその過程をワークショップの三時間内に実現させる平田氏の手腕は、繰り返しになるけれど、本当に見事だった。そしてこの三時間はとても楽しい時間であったことも強調しておきたい。警戒しつつ挑んだのに、まんまと平田氏に操作されてしまった、やられてしまったといういまいましさを感じつつ、それ以上に「演劇」の世界に少し足を踏み入れ、新しい世界を体験することができたという大きな喜びと充実を感じることができたのだった。
最初が肝心とはいえ、初回にこれだけ充実した経験をしてしまうと、次回以降への期待値が一気に高まってしまう。次回が楽しみだ。
こうやって書いて振り返ると、平田オリザ自身も強調していたことだが、演劇ワークショップというのは、自己啓発セミナーや宗教などの洗脳とかなり近い位置にあることが、何となくわかる。いや、教育というのにそもそもこういった要素が含まれているのかもしれない。