閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

はちみつ色のユン(2012)COULEUR DE PEAU: MIEL

はちみつ色のユン

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  • 上映時間:75分
  • 製作国:フランス/ベルギー/韓国/スイス
  • 初公開年月:2012/12/22
  • ジャンル:ドキュメンタリー
  • 監督:ユン、ローラン・ボワロー
  • 原作:ユン
  • 評価:☆☆☆☆☆

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2016/10/31(日)13時半〜17時 法政大学市ヶ谷校舎ボワソナードタワー3 階 BT0300

www.hosei.ac.jp


マンガ原作者・映画共同監督のユングさんの来日にともない、『はちみつ色のユン』の上映会とトークイベントが法政大学であったので行ってきた。


『はちみつ色のユン』を私が見るのは、この法政の上映会が5回目だった。2014年2月の文化庁メディア芸術祭開催中の上映会で私は2回見に行き、深い感銘を受けた私は、その後、6月に早稲田のフランス文学コースに開催協力を依頼し、上映会を行った。『はちみつ色のユン』は日本ではDVD、BDの販売が行われていない。見るには配給元のトリウッドに連絡をとり、しかるべき上映料を払ってDVD/BDを借り、上映会を行わなくてはならないのだ。早稲田の上映会は上映料は大学に出して貰ったが、トリウッドとのやりとりやチラシの制作、会場準備は私ひとりでやった。70人ぐらい見に来てくれた。本当は大教室が埋まる200人ぐらい来て欲しいと思っていたのでちょっと残念な気持ちだった。

早稲田の上映会のときは、上映会の前日に器材の確認のため、ひとりで夜の教室に行ってBDを見た。ちゃんと器材の操作ができるように確認できればよかったのだが、上映しはじめると、2月の芸術祭のときに六本木で2回見たにもかかわらず、見入ってしまい、結局、最後まで見てしまった。そしてその翌日の上映会でももちろん見た。これで4回。

先日の法政で5回目。民族のアイデンティティと家族関係の問題を通して自分の居場所を探すというのは、文学的には極めてありふれたテーマであり、このテーマの作品というのはうんざりするくらいたくさんある。民族アイデンティティの問題で葛藤した経験などまったくない(そうした経験を持ち得ない)私のような人間が、なぜこのテーマの作品に強く惹かれてしまうのかを正確に説明することは難しい。

ベルギーの社会、そして家族のなかに自分の居場所を見失ったユンの姿には、私たちが抱える自己存在についての問いかけ、孤独感、不安感が、先鋭的なかたちで集約されているように感じるから、ともっともらしく語ることもできないわけではないけれど、その切実さにおいてはユンと私のあいだには雲泥の差があるという前提を忘れてはならないだろう。

私はこの映画を五度見て、五度とも見ながら泣いた。この映画のなかで一番悲壮な場面は、私にとってはではあるが、思春期のユンが自分が韓国出身であることを受け入れることができず、よりによって韓国を植民地化し、蹂躙した日本に自分のアジア人としてのアイデンティティを投影しようとするところだ。ユンのねじれかたが痛ましくてならない。幼いころから青年期になるまでのユンは、自分とその外側の世界に存在する噛み合わなさを常に感じつつも、それを対象化して認識するすべを持たなかったし、その違和感を訴えることもできなかった。訴える相手もいなかった。彼自身もそのもぞもぞする居心地の悪い世界の一部だった。そのじわじわとした黒い違和感の存在が日常的に無視できないほど大きくなったときに、彼はベルギーの家族と一緒に住むことができなくなってしまう。しかしその違和感は家族と離れても解消されることはない。ご飯にタバスコを大量に振りかける不健康な食事を続けたのは、自傷行為と言えるものであり、彼はそうした自傷行為を通じて緩慢な自殺を行っていたのだ。

この作品が悲壮なのは(そしてその悲壮さゆえに美しく、感動的なのだが)、幼き日から青年期にかけてユンが感じとっていた苦しみ、心の傷、彼が言葉にすることができなかった絶望を、黄土色がかった美しい色彩と優雅で洗練されたアニメーションの動き、静かで抑制された表現のなかで、淡々と提示して続けていたからだ。美しくノスタルジックな過去の思い出は、子供時代、どうにも解決しようがなかったユンの孤独と絶望を必ず想起させるものでもある。時系列に並ぶアニメーションによる回想を時折断ち切るドキュメンタリーのパートは、そうした子供時代の自分への優しさと切なさに満ちたコメントになっている。

映画では最後にユンは母を見出し、平安をとりもどすハッピーエンドになっている。しかしユンが本当にようやくはちみつ色の肌である自分をそのものとして受け入れることができたのは、彼が大人になりこの私小説バンドデシネを書き終えたあと、そしてこの映画を完成させた後ではないだろうか。そしてこの自伝的作品を作る過程にも、彼は過去のつらい傷をもう一度、追体験しなくてはならなかった。

私はこの素晴らしい作品が日本ではまだごく限られた観客しか得られていないことが残念でならない。日本語訳が出ている原作マンガ(私はもちろん購入しているが、子供たちが何回も繰り返し読んだのでボロボロになってしまった)ももっと広く世に知られ、読まれるべきものだ。上映会のみという形態にもよさはあるのだけれど、できるだけ早く作品がDVD/BDとして発売され、さらに広い観客を獲得できるようになって欲しい。

今回のトークイベントでは、原作マンガの翻訳者、朝鮮史の研究者、フランス文学の研究者、社会学者、アニメーションの研究者といった様々な分野の人が集まった。時間の関係でひとり10分程度という短い時間の発表になってしまったのは残念だったが、『はちいつ色のユン』は様々な領域の関心を引き出す間口の広い作品であることが確認できた。この作品を核に、科研費の共同研究などで超領域的なシンポジウムがいつか行えるといいのになと思った。