閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

鈴木陽代一人芝居『駈込み訴え』

2016年10月14日(月)17時@宇フォーラム美術館

yahama.exblog.jp

評価:☆☆☆☆

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太宰治には一人称体の小説が多い。その中でもイエスを告発するユダの1人語りである『駈込み訴え』は最も演劇性を感じさせる作品のひとつだろう。愛する師を裏切ることで興奮し、逆上したユダの心理の混乱が、その文体にはリアルに投影され、テクストの字面を通してユダの口調、表情、姿が思い浮かぶ。
このところ私は大規模なスペクタクルよりも、最小限の舞台装置で、一人ないし二人の出演者によって行われる小さな公演を見たい欲求が強い。SPACの俳優である鈴木陽代が一人芝居で太宰の『駈込み訴え』を上演すると知って、好奇心を刺激された。ここ数ヶ月は中世の典礼劇研究で聖書とその周辺のテクストを読み込んでいたので尚更だった。
ただし『駈込み訴え』は読書を通しただけでも、つまり俳優の存在がなくても、演劇的情景がはっきりと思い浮かんで来るような作品だ。こういった演劇性が強い文学テクストは実はかえって上演が難しい面があるかも知れない。凡庸な解釈と俳優の身体の介入によって、逆に作品の世界を矮小化してしまう危険もあるからだ。
鈴木陽代の『駈込み訴え』は文学性の高い一人芝居だった。文学性が高いとはつまり原作テクストを丁寧に読み込んで、そのテクストが伝える語り手の心理の変化を分析し、それにふさわしい演劇表現、声、表情、身体のあり方を模索したことが伝わってくるパフォーマンスだったということだ。『駈込み訴え』が紛れもない名作であることを、鈴木の表現を通じてあらためて認識することができた。神であるイエスが非人間的で不可解であることへのユダの絶望、そしてイエスがもたらす圧倒的な闇、謎、空虚は、逆説的に抗うことにできない強力な魅力を持っていること。激しい葛藤の中で身悶えしながら、自虐、破滅に快楽さえ覚えるような倒錯的な愛の陶酔へとユダが突き進んでいくことが、鈴木の身体を通して生々しく伝えられる。ユダの倒錯は同性愛的なものへと繋がっていく。
彼はイエスは一度死ななくてはならないことを知っている。一度死んだ後で再生するというモチーフは聖書のなかに繰り返し現れ、強調されている。イエスの理解者であるユダが、師の死と再生を予感していないわけはない。そしてイエスを死に導くための悪者を自分が引き受けなくてはならないことも彼はおそらく承知の上だ。『駈込み訴え』のユダは、自らが醜悪なふるまいを行い、悪者となることを引き受けることで、愛するイエスに自分が奉仕できることを苦しみながら喜んでいるように思える。最後に「イエスカリオテのユダ」と語り手が自らの名前を述べるとき、そこには卑屈な自虐ではなく、重大なミッションを終えた者の大きな満足感がある。
福音書の文章が素っ気なく、よそよそしいのは、それを読む読者たちの能動的な想像力を引き出すためではないだろうか。太宰は文字通り「散文的」な聖書の記述のなかに、激しいドラマを読み取った。われわれはユダ的なものを通してしか、イエス、そして神の不条理に到達できないような気がする。『駈込み訴え』には太宰の聖書理解の真っ当さが現れている。
鈴木の表現はテクストの内容、文体、勢いを裏切らず、ユダの屈折と激情を精密に再現していく。
鈴木は不器用に前口上をたらたらと述べていると、突然、激しい勢いで「申し上げます。申し上げます。旦那さま」と叫ぶ。興奮状態で絶叫のように数行の台詞を述べたあと、暗転し、また仕切り直しのように今度は穏やかに語りが始まる。この鮮やかで暴力的な導入はとても効果的だった。観客は虚を突かれ、一気に語りの世界に引き込まれてしまう。
会場がコンクリートの内装の美術館であることもあり、声がよく反響した。今日の演目ではこの反響が語りの緊迫感、荘厳さとマッチしていてよかった。観客のなかには赤ん坊がいて、その赤ん坊がまたいい感じでパフォーマンス中に泣いた。
パフォーマーは上演中に服を三回脱ぐ。イエスが弟子の足を洗う場面で、白い布(スカーフ?)を使って劇中劇的に表現した工夫がよかった。全体的にテクストの内容に沿った写実的な芝居だったが、舞台上での演者の動きがないので、もう少しスペクタクルとしての仕掛け、外連を入れるなど演出上の仕掛をほどこし、異なる表現の層を導入してもいいかもしれない。もっともやり過ぎるとバランスが崩れたり、安っぽいものになってしまう。
パフォーマンスの終わり方にはもっとやりようがあるかも。終わり方というよりは、終わったあとの処理にきれがない。うまく余韻を残しつつ、芝居の区切りを観客に示す工夫があったほうがいい。冒頭があざやかだっただけに、最後がうやむやみたいな感じになったのはちょっと残念な気がした。