閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/07/29 劇団サム第7回公演@練馬区立生涯学習センター

gekidansam.com

  1. 『真夏の夜の夢』(練馬区立石神井東中学校演劇部)
    • 原作:シェイクスピア
    • 潤色:小林円佳
    • 出演:石神井東中学校演劇部
  2. 『ひがいしゃのかい』(劇団サム)
    • 作:北村美玖
    • 演出:田代卓
    • 出演:坂本美優、高橋らな、内野そら
  3. 『ハムレット』(劇団サム)
    • 作:小沼朝生
    • 演出:田代卓
    • 出演:関口政紀、戸田拓人、尾又光俊

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 石神井東中学校演劇部の元顧問、田代卓が主宰し、同演劇部OBOGからなる劇団サムの第7回公演。年に一回の割合で公演を行っているが、新型コロナにはこの劇団も翻弄され、昨年の第6回公演は、例年夏に行っていた定期公演を冬にずらして臨んだものの、公演直前に緊急事態宣言が発令され上演中止となる憂き目を見た。この中止になった公演の代替的公演として、昨年は4月に少人数での特別公演を行っている。第7回公演は三年ぶりとなる夏公演で、清水邦夫の名作『楽屋』に劇団サムの若い俳優たちが挑戦するということで楽しみにしていたのだけれど、『楽屋』のキャスト・スタッフに新型コロナ陽性・濃厚接触者が出てしまい、公演日直前に公演中止になってしまった。出演者、スタッフはさぞ無念だったに違いない。

 今回の公演の目玉となるはずだった『楽屋』の公演は中止になってしまったが、別のキャストによる『ひがいしゃのかい』、『ハムレット』は上演されることになり、この二本に加え、私が見た7/29(金)には現役の石神井東中学校演劇部員による『真夏の夜の夢』の上演が行われた。

  石神井中演劇部の『真夏の夜の夢』の上演時間は40分ほどだった。中学生によるシェイクスピア作品の上演を見るのは私はこれが初めてだったが、これが実に可愛らしく、芝居としてもとても楽しんで見ることができた。

 オベロンとティタニアの妖精の世界を中心にコンパクトにまとまった翻案になっていた。原作にあるテーセウスとヒポリュテというアテネの王と王妃の役柄は、妖精の王と王妃であるオベロンとティタニアに吸収されている。素人芝居の稽古をしに森にやってくるアテネの職人たちの数は二人にだけになっている。原作では端役の扱いの森の妖精たちとインドの美少年の存在感がこの翻案では強調されている。原作では妖精の女王のティタニアには数名の妖精が侍女のようにつくが、この翻案ではオベロン付の妖精がパック以外に数名いて、オベロンと会話する。台詞は現代口語、今時の若者たちのことばになっていて、妖精たちはコロス的に、現代的感覚からみると奇妙な劇中人物たちの言動に、つっこみを入れる。

 中学生の芝居なので個々の演技が格別にうまいというわけではないのだけれど、オベロンとティタニアには王と王妃の風格は感じられたし、チュチュを着た妖精たちは可愛らしいし、レースがたくさんついたふわふわのロングドレスを着るハーミアとセンスのいい普段着のヘレナは彼女たちの性格の対比を視覚的に示していた。台詞がなく、無言の笑顔で妖精たちに転がされて動くようなインドの美少年の出で立ちもいい。要は演じるのは中学生なのだけれど、それぞれの役柄がみな妙にはまっているのだ。

 アテネ近郊の森のなかで劇は展開するが、舞台美術は天井から床まで幅30センチほどの緑の紙の帯が舞台後ろに垂れ下がり、そこに紙細工で花や葉などが貼り付けられている手作りの素朴なものだった。ある種の学芸会的な手作り感と安っぽさがむしろ味になって、『真夏の夜の夢』の夢幻的な世界の雰囲気が強く感じられるようになっていた

 童話劇的なファンタジーが濃厚な楽しい舞台だった。演じている役者たちが、自分の役柄を楽しんで演じている様子が感じられ、それを見るこちらの心も浮き立つ。マスク装着演技だったが、台詞は明瞭で、マスクの存在は気にならなかった。

 劇の展開の軸となるパックを演じた俳優がよかった。軽やかでひょうひょうとした明るいパックで、このいたずら者のパックが古代ギリシャ・ローマの愛の神エロス/クピードーに近い存在であることに、石神井東版の『真夏の夜の夢』を見て気づいた。「妖精の姿が人間に見え、妖精と話すことができる夏至の夜」(この設定は原作では提示されていないが、おそらくこういうフォークロアはあるのだろう)に、妖精たちの住処である森で展開するドタバタの夢幻劇、この夢幻からの覚醒を示すパックから観客に向けられた最後の口上は、私は『真夏の夜の夢』で最も好きな台詞なのだが、この口上もカーテンコールのなかで効果的に観客に伝えられた。中学生の俳優たちによる奇妙で、可愛らしい40分の夢幻劇の世界を楽しむことができた。

 15分ほどの休憩をはさんで、劇団サムの公演が行われた。最初に上演されたのは北村美玖作『ひがいしゃのかい』。この作品は登場人物が男性三人で、15分ほどの長さの小芝居、コントだった。セットはパイプ椅子が三脚と白板が一つ。男性差別による被害を訴える集会という設定。しかしその集会には二人しか人がいない。この二人が自分たちが被った男性差別を語っているところに、三人目の男がやってくる。先にいた二人の男のミソジニー(女性嫌悪)の問題点を三人目の男性は冷静に指摘する。しかしこの三人目の男性はエキセントリックな性差否定論者が次第明らかになり、全裸主義という極端な主張をはじめる。一番まともそうだった三人目が実は一番どうかしていたという落ち。直前に見た中学生の芝居と比べると、劇団サムの団員の芝居はシャープでピントがしっかりあっている感じがする。スピード感と間の取り方が要となる芝居だが、15分間、勢いを保った小気味よい芝居だった。重めの芝居の幕間劇としてこういう芝居を置くのは効果的だ。

 最後の作品は『ハムレット』は40分ほどの長さの作品だった。最初に幕前でパネルを使ってシェイクスピア『ハムレット』の概要が観客に説明される。その後、幕が開くと女優三名の芝居になる。ハムレットの父の亡霊の場面を最初、かなり長い時間きっちりと三名の女優が演じるので、題名通り『ハムレット』の縮約版をやるのかなと思っていたらそうではなかった。『ハムレット』は劇中劇で、『ハムレット』のいくつかの場面と『ハムレット』の稽古をする三人の高校演劇部員の様子が交互に提示される。三人の演劇部員は『ハムレット』の稽古のなかで、『ハムレット』の登場人物の奇矯な振る舞いを批評しつつ、自分が演劇のなかだけでなく、日常においても何かを演じていることについての違和感について話しはじめる。日々の生活のなかで自分たちが抱えている葛藤と『ハムレット』の登場人物たちの葛藤が次第にシンクロしていく。当日パンフレットの記述によると、もともとは中学演劇で上演された作品だったそうだ。脚本としては、三人の学生のうち一人が進行性の重い病気にかかっていたという仕掛けが常套的で安易に私には思われ、私はいまひとつ入り込めなかった。学生演劇部員たちの会話の内容も人工的に思え、彼女たちと同世代の若者たちの声を代弁する台詞として捉えることはできなかった。ただ自意識過剰になりがちな若者たちは、「本当の」自分を率直さらして傷つくことを恐れているのか、自分と同世代のそういった若者たちの型を演じているように見えるように感じることがかなりあって、そういった意味ではこの『ハムレット』は若い世代の人たちの心に響くところがあるのかもしれない。

 メイン演目の『楽屋』の上演がなくなったのは残念だった。私は劇団サムの立ち上げ時の七年前からこの劇団の公演を見ている。『楽屋』に出演する4人の女優のうちの何人かは、これまでの彼女たちが出演した舞台の記憶が残っている。十代後半から二十代前半は人生の激動期であり、外見のうえでも、内面的にも、大きな変化のある時期だ。劇団サムは出自が中学演劇部ということもあり、これまでの公演はどちらかというと学校演劇の雰囲気が強い作品の上演が多かった。主宰の田代卓は中学演劇部の顧問であるし、退職した今も、団員たちにとっては常に先生だ。劇団サムは中学演劇のエートスを引き継ぎつつ、思春期後期から大人になりつつある若者たちが、ここに居場所を見いだし、演劇活動を続けているところに特徴がある。『楽屋』は実は高校演劇でもしばしば上演される作品みたいだが、劇団サムの活動の中で少女から大人になった女優たちがこの作品にどう向き合って、どのように表現するのかは、7年間、この劇団を見てきた私にはとても興味深い挑戦に思えたのだ。また近いうちに劇団サムによる『楽屋』を見る機会がありますように。