閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

義太夫節研究会第一回研究成果報告会「五十回忌追善 十代豊竹若太夫を振り返る」

11/27(日)13時〜15時45分
東京藝術大学音楽学部5-401特別講義室
第一部が太田暁子氏と神津武男氏の講演、第二部がこの二人が聞き手になって、人間国宝の豊竹嶋太夫と竹本駒之助に十代豊竹若太夫の想い出を語ってもらうという座談会。
開始時間を勘違いしていて開場に到着したのが十三時半過ぎだった。太田暁子氏の発表は聞くことができず。神津氏の発表を聞いた。発表の冒頭の切り込み方がとてもいい。十世豊竹若大夫の五十周忌への黙祷を会場内の参加者に促し、捧げた後、それを国立劇場五十周年へとつなげる。今年五十周年を迎えた国立劇場では様々な企画・展示が行われたが、神津氏曰く、そのなかで文楽のありかたについて正面から論じた評言、総括が見当たらない。現代における文楽興行の担い手の要である国立劇場が、その責務を十分に果たしていないではないかと批判しているのだ。そして文楽の現在において、彼が研究者として語るべきことを語るという覚悟を宣言しているのである。気鋭の文楽研究者である神津氏のこの鮮やかな啖呵には、私は思わず背筋が伸びた。研究対象である文楽への深い愛情と研究者としてその対象を責任をもって引き受ける強い使命感を感じたからだ。狭い世界内部のヒエラルキー、人間関係に神経をすり減らすアカデミズムの世界では、若手の研究者がこうしたことはなかなか言えるものではない。
神津氏の今日の発表は30分。十代豊竹若太夫の生きた時代(明治・大正・昭和)が、義太夫節の歴史のなかでどういう意味を持つかを、資料として配付された人形浄瑠璃略年表を参照しつつ解説するという内容だった。かつては文楽の公演は「通し」で上演されるのがスタンダードだった。これが「見取り」中心の公演になったのは、昭和5年(1930)の四ツ橋文楽座の開場がきっかけである。「見取り」が公演の中心になることで、芸のあり方も全体の構成を反映した大きくダイナミックな芸から細部に工夫を凝らした小さな芸へ移行していった。当然、観客の文楽の受容のしかた、評価のポイントの大きく変わっていく。昭和41年(1966)に国立劇場が開場し、文楽興行の担い手の主軸となるが、「見取り」中心のプログラムはそのまま踏襲され、この傾向は現在まで続いている(むしろ「通し」上演は、『忠臣蔵』など極めて少数の公演に限られている)。文楽研究の成果を踏まえた通し狂言の再興という方向には消極的で、惰性で見取り公演を国立劇場が続けていることに神津氏はおそらく不満があるのだと思う。私は日本の伝統芸能には門外漢ではあるけれど、現代ではほぼ上演される可能性がない古代ローマ劇や中世ラテン語劇、中世フランス語劇の上演可能性やポエム・アルモニークが行ったような17-18世紀のコメディ・バレ、オペラの歴史的再現公演などと、文楽・歌舞伎の復活狂言のあり方は比較できる部分があるかもしれない。フランスでは古い時代の演劇伝統は途切れてしまっていて、ポエム・アルモニークなどの例では文献資料などをもとに最初から歴史的なすがたを作り上げていく、再現を目指すということになるが、日本の伝統芸能の場合、なまじ昔から繋がっているだけに、どのように再現するかについては特有の難しい問題が出てくることは想像できる(とりわけ受け継がれてきた技術・習慣への強いこだわりが演者にはあるはずだが、歴史的再現は演者の身体にしみついた「あるべきありかた」と対立することが少なくないだろう)。
発表内容も興味深かったのだが、はっきりとした発声、緩急をつけた話し方、強調のしかた、そしてユーモアといった神津氏の発表パフォーマンスにも感心した。やはり舞台芸術研究者ならば自身の発表パフォーマンスにも配慮が必要だ。話の内容の説得力も増すというものだ。
後半は嶋太夫、駒之助師匠の座談会だが、この座談会導入もGoogleMapをプロジェクタで映し出して、嶋太夫師匠が内弟子として過ごした十代豊竹若太夫旧宅付近を辿るという趣向があった。若大夫師匠の旧宅は大阪、住吉大社の近くの二階長屋だった。若太夫師匠が亡くなって五十年たっているので当然周囲の街並みには大きな変化があるのだが、それでも若太夫旧宅の隣にあった酒屋の建物はまだ健在だったし、その隣にあるパン屋にも嶋太夫師匠は記憶があると言う。
主に神津氏のリードで、嶋太夫、駒之助師匠が彼らの師匠であった若太夫の想い出について語る。大体80パーセントは嶋太夫師匠が話していた。師匠の話す内弟子時代の想い出が本当に面白い。嶋太夫師匠と駒之助師匠は文楽で最後の内弟子世代なのだそうだ。「内弟子はつらいですよ」とまず子守の話から。若大夫師匠は夜も朝も早かった。隣は酒屋だったけど若大夫師匠は下戸だった。師匠の晩御飯はトースト一枚だけ。パン好きだった。若太夫は目がほとんど見えなかったので、その身の回りの世話はかなり大変だったはずだ。
長屋の二階の三帖間で内弟子は寝起きし、稽古を受けた。ご飯はあんまりお米が入っていない薄いお粥だった。昭和二十年代の当時はどこもそんな感じだったそうだ。お粥は食べるというよりは飲む感じ。朝9時頃から通いの弟子がやって来る。稽古は通い優先で、内弟子の稽古は後回しだった。 実家にはお盆・正月の四日間だけ帰省できた。その時に実家から小遣いを貰えた。それをちびちび使って食べ物などを買った。若大夫師匠が近所で金を使うのは風呂屋に行く時くらい。ただ師匠は風呂嫌い。風呂に入ると「脂が抜けてしまうから」だそうだ。
当時の石鹸は鯨脂で作っていた。師匠家族7人だったので洗濯が大変だった。長屋だったので洗濯の物干し場は両隣と共用。隣の酒屋のお嬢さんに「洗濯好きなんやねぇ」と声かけられ、「えぇ」という微笑ましいやりとりもあったそうだ。
若大夫師匠は酒もタバコもやらなかったが、とにかく賭け事大好き。競馬、競輪、米相場。賭け事は常に大穴狙い。「文楽も米相場も死ぬ気でやる」。しかし嶋太夫師匠は払戻し窓口に行ったことは一度もない。
駒之助師匠は、若太夫師匠の付添で(目が悪かったからだろう)新町の赤線まで案内させられたことがあったとか。師匠を送り届けてから、家でおかみさんにあそこが赤線であることを聞き、以後二度と新町への送り迎えは断ったとか。おかみさんは「あそこに行ってくれるとうちは楽でええんや」と言っていたそうだ。
など色々、当時のエピソードが出てきて、非常に興味深い。神津さんのつっこみと嶋太夫師匠のぼけ、そして師匠の口から語られる若太夫師匠の大らかで破天荒な生活ぶりのおかしさに何度も大笑いした。

灰とダイヤモンド(1957)

灰とダイヤモンド(1957)POPIOL I DIAMENT

www.polandfilmfes.com

  • 上映時間:102分
  • 製作国:ポーランド
  • 初公開年月:1959/07/07監督: アンジェイ・ワイダ 
  • 原作: イエジー・アンジェウスキー、アンジェイ・ワイダ 
  • 脚本: イエジー・アンジェウスキー、アンジェイ・ワイダ 
  • 撮影: イエジー・ヴォイチック 
  • 音楽: ボーダン・ビエンコフスキー 
  • 出演: ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ 、バクラフ・ザストルジンスキー
  • 映画館:シネマート新宿
  • 評価:☆☆☆☆★

----

ドイツの支配から解放された新生ポーランドの旅立ちはなんと重苦しいものだったのか。祖国を取り戻したと同時に祖国に自らの居場所を失い、呆然と絶望するしかなかったポーランド人があの当時数多くいたことを想像させる。
一夜の恋にすがった亡命政府派の暗殺者とバーの女性が抱える孤独と絶望の深さに心打たれた。
モノクロの画面のシャープな絵の美しさに痺れた。

この世界の片隅に(2016)

konosekai.jp

 

----

突然の死が日常に入り込むのが当たり前となった戦時下の状況の下では、平時にはありえないような感動的な人間のすがたが見られることもあっただろうが、極度のストレスに晒される日々の継続のもと、平時には閉じ込められていたあさましく非道な行いも噴出していたに違いないと、私は想像する。

この世界の片隅に』は、そうした極度にストレスフルな状況であっても、いやそういう状況であるからこそ、そうあって欲しいという人間のありかた、庶民の日常への願望が描き出されているように思った。

無垢な犠牲者である庶民を美化するのではなく、悲惨で痛ましい歴史的現実のなかに祈りと希望を求めたいという気持ちがこのような作品を作らせたのではないだろうか。

もしかすると戦時下にこういう日常が本当に存在していたかのもしれない。人間の生活のはかなさ、そのはかなさゆえの愛おしさ、美しさを淡々と優しく伝える作品だった。見ていて知らないうちに泣いてしまった。

帰りの電車のなかで、映画を反芻しまた泣いた。じわじわと心に迫る作品だ。

世界の果てまでヒャッハー!(2015)

www.hyahha-movie.net

  • 上映時間:93分
  • 製作国:フランス
  • 初公開年月:2016/11/19
  • 監督: ニコラ・ブナム、フィリップ・ラショー 
  • 脚本: ジュリアン・アルッティ、ピエール・ラショー、ニコラ・ブナム、フィリップ・ラショー 
  • 音楽: マキシム・デプレ、ミカエル・トルディマン 
  • 出演: フィリップ・ラショー、アリス・ダヴィ、タレク・ブダリ、ジュリアン・アルッティ
  • 映画館:シネマート新宿
  • 評価:☆☆☆☆

----------

お約束ギャグの小ネタ満載のフランスらしいバカ映画。この邦題はキャッチーだと思う。つい見に行ってしまった。ブラジルのリゾートホテルにバカンスにやってきた若い男女のグループが、奥地体験ツアーで遭難する話。ブラックで陰湿な笑いではなく、夏のリゾート地の浮かれた気分を反映したような陽性のおバカ・コメディに徹している。適度な下品さもいい。見終わると爽快な気分になる良質のコメディ。夏のニースにいるとこんな雰囲気を何となく感じるときがある。

 

 

永い言い訳(2016)

nagai-iiwake.com

-------

地味だけれど、曖昧ですっきりしない終わり方がもたらすずーんとした重みが、見終わった後、徐々に増してくる。家に帰り映画のことを思い返すと、静かにゆっくり憂鬱な気分になっていく。

日常のけん怠の積み重ねのなかで、夫婦関係が気がつくとうんざりとした惰性的関係になっている。お互いを慈しみあう愛情は枯れてしまった。顔を合わせると出てくるのは嫌みやあてこすりだ。互いが互いに甘える共依存関係の持続のなかで、くすんでしまった夫婦というのは、世の中にきっと数多いに違いない。気がつくと優しい言葉をかけることがなくなっている。相手を思いやる優しい感情さえ浮かばない。

そんな夫婦関係でも、長年一緒に生活をともにした配偶者が突然いなくなってしまったときには、解放感よりも喪失感にとまどう人間のほうが多いような気がこの映画を見てした。「生きているうちに優しくしておけばよかった」という後悔はかりそめのもので、とにかくあったものが不在になることによるガランとした喪失感にうろたえてしまう。精神を侵食してくる暗い虚無感をどうにかしてやりすごしたい。

永い言い訳』は、愛しあうことを忘れてしまった夫婦をその物語の出発点にするという着想が素晴らしい。そしてパートナーを失った人間が、自分に襲いかかる喪失感と虚無感にもがきつづけることで、その死の空白を受け入れる過程を、冷徹に描いているところがすごい。

はちみつ色のユン(2012)COULEUR DE PEAU: MIEL

はちみつ色のユン

f:id:camin:20161102080415j:plain

  • 上映時間:75分
  • 製作国:フランス/ベルギー/韓国/スイス
  • 初公開年月:2012/12/22
  • ジャンル:ドキュメンタリー
  • 監督:ユン、ローラン・ボワロー
  • 原作:ユン
  • 評価:☆☆☆☆☆

-----------

2016/10/31(日)13時半〜17時 法政大学市ヶ谷校舎ボワソナードタワー3 階 BT0300

www.hosei.ac.jp


マンガ原作者・映画共同監督のユングさんの来日にともない、『はちみつ色のユン』の上映会とトークイベントが法政大学であったので行ってきた。


『はちみつ色のユン』を私が見るのは、この法政の上映会が5回目だった。2014年2月の文化庁メディア芸術祭開催中の上映会で私は2回見に行き、深い感銘を受けた私は、その後、6月に早稲田のフランス文学コースに開催協力を依頼し、上映会を行った。『はちみつ色のユン』は日本ではDVD、BDの販売が行われていない。見るには配給元のトリウッドに連絡をとり、しかるべき上映料を払ってDVD/BDを借り、上映会を行わなくてはならないのだ。早稲田の上映会は上映料は大学に出して貰ったが、トリウッドとのやりとりやチラシの制作、会場準備は私ひとりでやった。70人ぐらい見に来てくれた。本当は大教室が埋まる200人ぐらい来て欲しいと思っていたのでちょっと残念な気持ちだった。

早稲田の上映会のときは、上映会の前日に器材の確認のため、ひとりで夜の教室に行ってBDを見た。ちゃんと器材の操作ができるように確認できればよかったのだが、上映しはじめると、2月の芸術祭のときに六本木で2回見たにもかかわらず、見入ってしまい、結局、最後まで見てしまった。そしてその翌日の上映会でももちろん見た。これで4回。

先日の法政で5回目。民族のアイデンティティと家族関係の問題を通して自分の居場所を探すというのは、文学的には極めてありふれたテーマであり、このテーマの作品というのはうんざりするくらいたくさんある。民族アイデンティティの問題で葛藤した経験などまったくない(そうした経験を持ち得ない)私のような人間が、なぜこのテーマの作品に強く惹かれてしまうのかを正確に説明することは難しい。

ベルギーの社会、そして家族のなかに自分の居場所を見失ったユンの姿には、私たちが抱える自己存在についての問いかけ、孤独感、不安感が、先鋭的なかたちで集約されているように感じるから、ともっともらしく語ることもできないわけではないけれど、その切実さにおいてはユンと私のあいだには雲泥の差があるという前提を忘れてはならないだろう。

私はこの映画を五度見て、五度とも見ながら泣いた。この映画のなかで一番悲壮な場面は、私にとってはではあるが、思春期のユンが自分が韓国出身であることを受け入れることができず、よりによって韓国を植民地化し、蹂躙した日本に自分のアジア人としてのアイデンティティを投影しようとするところだ。ユンのねじれかたが痛ましくてならない。幼いころから青年期になるまでのユンは、自分とその外側の世界に存在する噛み合わなさを常に感じつつも、それを対象化して認識するすべを持たなかったし、その違和感を訴えることもできなかった。訴える相手もいなかった。彼自身もそのもぞもぞする居心地の悪い世界の一部だった。そのじわじわとした黒い違和感の存在が日常的に無視できないほど大きくなったときに、彼はベルギーの家族と一緒に住むことができなくなってしまう。しかしその違和感は家族と離れても解消されることはない。ご飯にタバスコを大量に振りかける不健康な食事を続けたのは、自傷行為と言えるものであり、彼はそうした自傷行為を通じて緩慢な自殺を行っていたのだ。

この作品が悲壮なのは(そしてその悲壮さゆえに美しく、感動的なのだが)、幼き日から青年期にかけてユンが感じとっていた苦しみ、心の傷、彼が言葉にすることができなかった絶望を、黄土色がかった美しい色彩と優雅で洗練されたアニメーションの動き、静かで抑制された表現のなかで、淡々と提示して続けていたからだ。美しくノスタルジックな過去の思い出は、子供時代、どうにも解決しようがなかったユンの孤独と絶望を必ず想起させるものでもある。時系列に並ぶアニメーションによる回想を時折断ち切るドキュメンタリーのパートは、そうした子供時代の自分への優しさと切なさに満ちたコメントになっている。

映画では最後にユンは母を見出し、平安をとりもどすハッピーエンドになっている。しかしユンが本当にようやくはちみつ色の肌である自分をそのものとして受け入れることができたのは、彼が大人になりこの私小説バンドデシネを書き終えたあと、そしてこの映画を完成させた後ではないだろうか。そしてこの自伝的作品を作る過程にも、彼は過去のつらい傷をもう一度、追体験しなくてはならなかった。

私はこの素晴らしい作品が日本ではまだごく限られた観客しか得られていないことが残念でならない。日本語訳が出ている原作マンガ(私はもちろん購入しているが、子供たちが何回も繰り返し読んだのでボロボロになってしまった)ももっと広く世に知られ、読まれるべきものだ。上映会のみという形態にもよさはあるのだけれど、できるだけ早く作品がDVD/BDとして発売され、さらに広い観客を獲得できるようになって欲しい。

今回のトークイベントでは、原作マンガの翻訳者、朝鮮史の研究者、フランス文学の研究者、社会学者、アニメーションの研究者といった様々な分野の人が集まった。時間の関係でひとり10分程度という短い時間の発表になってしまったのは残念だったが、『はちいつ色のユン』は様々な領域の関心を引き出す間口の広い作品であることが確認できた。この作品を核に、科研費の共同研究などで超領域的なシンポジウムがいつか行えるといいのになと思った。

鈴木陽代一人芝居『駈込み訴え』

2016年10月14日(月)17時@宇フォーラム美術館

yahama.exblog.jp

評価:☆☆☆☆

-----------

太宰治には一人称体の小説が多い。その中でもイエスを告発するユダの1人語りである『駈込み訴え』は最も演劇性を感じさせる作品のひとつだろう。愛する師を裏切ることで興奮し、逆上したユダの心理の混乱が、その文体にはリアルに投影され、テクストの字面を通してユダの口調、表情、姿が思い浮かぶ。
このところ私は大規模なスペクタクルよりも、最小限の舞台装置で、一人ないし二人の出演者によって行われる小さな公演を見たい欲求が強い。SPACの俳優である鈴木陽代が一人芝居で太宰の『駈込み訴え』を上演すると知って、好奇心を刺激された。ここ数ヶ月は中世の典礼劇研究で聖書とその周辺のテクストを読み込んでいたので尚更だった。
ただし『駈込み訴え』は読書を通しただけでも、つまり俳優の存在がなくても、演劇的情景がはっきりと思い浮かんで来るような作品だ。こういった演劇性が強い文学テクストは実はかえって上演が難しい面があるかも知れない。凡庸な解釈と俳優の身体の介入によって、逆に作品の世界を矮小化してしまう危険もあるからだ。
鈴木陽代の『駈込み訴え』は文学性の高い一人芝居だった。文学性が高いとはつまり原作テクストを丁寧に読み込んで、そのテクストが伝える語り手の心理の変化を分析し、それにふさわしい演劇表現、声、表情、身体のあり方を模索したことが伝わってくるパフォーマンスだったということだ。『駈込み訴え』が紛れもない名作であることを、鈴木の表現を通じてあらためて認識することができた。神であるイエスが非人間的で不可解であることへのユダの絶望、そしてイエスがもたらす圧倒的な闇、謎、空虚は、逆説的に抗うことにできない強力な魅力を持っていること。激しい葛藤の中で身悶えしながら、自虐、破滅に快楽さえ覚えるような倒錯的な愛の陶酔へとユダが突き進んでいくことが、鈴木の身体を通して生々しく伝えられる。ユダの倒錯は同性愛的なものへと繋がっていく。
彼はイエスは一度死ななくてはならないことを知っている。一度死んだ後で再生するというモチーフは聖書のなかに繰り返し現れ、強調されている。イエスの理解者であるユダが、師の死と再生を予感していないわけはない。そしてイエスを死に導くための悪者を自分が引き受けなくてはならないことも彼はおそらく承知の上だ。『駈込み訴え』のユダは、自らが醜悪なふるまいを行い、悪者となることを引き受けることで、愛するイエスに自分が奉仕できることを苦しみながら喜んでいるように思える。最後に「イエスカリオテのユダ」と語り手が自らの名前を述べるとき、そこには卑屈な自虐ではなく、重大なミッションを終えた者の大きな満足感がある。
福音書の文章が素っ気なく、よそよそしいのは、それを読む読者たちの能動的な想像力を引き出すためではないだろうか。太宰は文字通り「散文的」な聖書の記述のなかに、激しいドラマを読み取った。われわれはユダ的なものを通してしか、イエス、そして神の不条理に到達できないような気がする。『駈込み訴え』には太宰の聖書理解の真っ当さが現れている。
鈴木の表現はテクストの内容、文体、勢いを裏切らず、ユダの屈折と激情を精密に再現していく。
鈴木は不器用に前口上をたらたらと述べていると、突然、激しい勢いで「申し上げます。申し上げます。旦那さま」と叫ぶ。興奮状態で絶叫のように数行の台詞を述べたあと、暗転し、また仕切り直しのように今度は穏やかに語りが始まる。この鮮やかで暴力的な導入はとても効果的だった。観客は虚を突かれ、一気に語りの世界に引き込まれてしまう。
会場がコンクリートの内装の美術館であることもあり、声がよく反響した。今日の演目ではこの反響が語りの緊迫感、荘厳さとマッチしていてよかった。観客のなかには赤ん坊がいて、その赤ん坊がまたいい感じでパフォーマンス中に泣いた。
パフォーマーは上演中に服を三回脱ぐ。イエスが弟子の足を洗う場面で、白い布(スカーフ?)を使って劇中劇的に表現した工夫がよかった。全体的にテクストの内容に沿った写実的な芝居だったが、舞台上での演者の動きがないので、もう少しスペクタクルとしての仕掛け、外連を入れるなど演出上の仕掛をほどこし、異なる表現の層を導入してもいいかもしれない。もっともやり過ぎるとバランスが崩れたり、安っぽいものになってしまう。
パフォーマンスの終わり方にはもっとやりようがあるかも。終わり方というよりは、終わったあとの処理にきれがない。うまく余韻を残しつつ、芝居の区切りを観客に示す工夫があったほうがいい。冒頭があざやかだっただけに、最後がうやむやみたいな感じになったのはちょっと残念な気がした。

テラ・アーツ・ファクトリー『三人姉妹 vol.1』(岸田理生原作)

構成・演出:林英樹
出演 :井口香、横山晃子
若林則夫、岸俊宏、関山ゆみ、加藤明美、長尾みわ、中山豊子
深沢幸弘(鬼面組)、渡邉大晃、相良ゆみ(舞踏)
会場:サブテレニアン
-----------------
自分の記憶の断片から生じたものであることは確かなのだが、その原型となる経験は記憶の闇のなかにあって思い出せない。果たして自分自身の体験なのか、自分が見聞した他者の体験が自分の記憶に紛れ込んでしまったのかも曖昧だ。繰り返し見る夢のなかにはこんな夢がいくつかある。
テラ・アーツ・ファクトリーが「板橋ビューネ2016」参加作品として上演した岸田理生の『三人姉妹 vol.1』はそんな夢の世界を思わせる作品だった。板橋ビューネという板橋区の小さな劇場を会場とする演劇祭では、古典作品が上演されるのが常だったので、私はこの『三人姉妹』もチェーホフをベースにした翻案だと思って観に行った。この戯曲は未刊行で手稿しか残されていないという。
岸田理生『三人姉妹 vol.1』は、戦時中に地方都市に疎開した日本の三人姉妹の物語であり、チェーホフの『三人姉妹』の直接的な翻案ではない。演劇作品として『三人姉妹』というタイトル、そして設定を用いるからには、チェーホフの傑作を意識せずに作品を作ったり、あるいは観客がその作品を見たりすることはほぼ不可能だ。三人姉妹の関係性のなかにチェーホフの『三人姉妹』を重ねてしまう。岸田理生『三人姉妹 vol.1』の長女は戦争未亡人で、夫は結婚後間もなく戦地に行き、戻ってこない。彼女はこの地方都市で家や財産を守っている。劇全体は枠構造になっていて、年老いた長女が自分の過去を回想するかたちになっていた。次女は東京に魚屋の恋人がいる。しかし東京は激しい空襲で焦土となっていて、恋人の安否は定かでない。三女は疎開先で貧しい農夫と恋に落ち、この町から逃げ出すことを考えいる。次女も三女も家を捨て、町から飛び出そうとするのだけれど、長女はそれを赦そうとしない。
この地方都市の三人姉妹の葛藤を核に、レビューのような感じで安っぽいテクノ・ポップの音楽とともに東京の人びとの風俗が演じられる。これは東京に憧れる三女の幻影のように提示されるが、そこで示されるのは婚活に失敗したキャリア・ウーマンの恨み節や言語不明瞭なアルバイト店員とその上司の対話など戯画化されたさえない日常風景であり、極めて散文的だ。地方の三人姉妹のやりとりの情緒的・幻想的な詩情を強引に断ち切るように、この散文的な東京の幻影の場面が挿入される。
舞台は真っ黒の素舞台であり、右側手前、客席のすぐ前に老人となった長女が座る椅子がある。彼女は客席のあいだの通路から入場すると、劇のあいだはずっとその椅子に座り、ノートをめくっている。そのノートは日記帳の類だろう。
黒い素舞台に立つ人物をシンプルなスポットライトがぼんやりと照らす。この黒一色の舞台は脚本の詩的な言葉と結びつき、抽象度の高いイメージを作り出す。そこで再現されているのは長女の回想であり、彼女の過去の記憶である。しかしその人物やことばはどこか実体を欠いた虚ろな存在に感じられる。空間と言葉が作り出すイメージからは、彼女たちの姿はかげろうのように儚くあるべきであるように思う。岸田理生の言葉の繊細さは、透明の硬質の結晶(しかし不用意に触れるとすぐに砕けてしまうような)を思わせる。
私としては残念に思ったことは、俳優の演技と雰囲気があまりにもソリッドで説明的であり、黒い空間と岸田理生の言葉から私が感じた繊細さと曖昧さから乖離があったことだ。例えばメゾチントの銅版画のようなそんな作品を私としては期待してしまうのだけれど、実際に舞台上では油絵でべたっと塗りつぶしてしまうような、そんな感じである。俳優は俳優でそれぞれが自分のできることを最大限やっていることは伝わってきたのだけれど。

8月の家族たち(2013)August : Osage County

-----------------

5月にケラリーノ・サンドロヴィッチ演出、麻実れい主演の舞台を見た。アメリカ版のマクドナーといった感じの強烈な皮肉と荒々しい言葉で、とある家族の欺瞞が無残に暴かれていく作品で、舞台作品としてとても面白かった。主人公は薬中で、家族というものを根本的に信用できず、激しく憎悪し、その容赦ない毒舌で家族のメンバーを追い詰めるエキセントリックな老女だ。もちろんこの憎悪と激しさは、(たとえそれが欺瞞であったとしても)家族愛への激しい渇望と彼女の孤独感、人間的な弱さと表裏一体となっている。

映画版ではメリル・ストリープが主演であることを知り、個人的には麻実れいよりもメリル・ストリープのほうがこの作品には合っているような気がして、DVDを借りた。映画版はストリープ以外も、ジュリア・ロバーツ、、ユアン・マクレガー、カンバーバッチなど人気俳優が揃っている。主人公の老女の退廃と孤独の深さは、やはりストリープのほうがニュアンスに富んだ演技をしている。麻実れいの怪物ぶりの迫力は相当なものだし、映画でロバーツが演じた長女を舞台で演じた秋山菜津子とのやりとりの緊迫感、リズムは痛快であったが、舞台というジャンルの特性もあり、記号的でニュアンスに乏しいものであったように、映画版を見たときに思った。

映画版はとても丁寧に作ってあったのだが、ドラマとしての緊迫感は舞台版が上かもしれない。緊迫したやりとりをするっと反転させる脚本の作りの巧さについては、映画版で見たときも「おっ」と思わず声が出てしまうほど鮮やかで素晴らしい。

君の名は。

君の名は。

www.kiminona.com

------------

伏線が巧みに回収される脚本はよくできている。田舎の風景、習俗の丁寧な描写もよかった。しかしこうした青春アニメで具現化される主人公の男女の人物造形には、私はまったく共感できない。可愛くて溌剌としていて真面目な女の子という作り手や観客の願望が露骨に投影されたヒロインにはリアリティを感じないし、男の子も変に行儀がよくてその言動がかっこよすぎるように思える。細田守の『時をかける少女』でも同じような居心地の悪さを感じたのだけれど、こうした男女像が若いカップルの定型、ある種の理想的モデルとなっているのだろう。こういうファンタジーのなかには私は居場所がないなと思う。