東京藝術大学音楽学部5-401特別講義室
義太夫節研究会第一回研究成果報告会「五十回忌追善 十代豊竹若太夫を振り返る」
東京藝術大学音楽学部5-401特別講義室
灰とダイヤモンド(1957)POPIOL I DIAMENT
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ドイツの支配から解放された新生ポーランドの旅立ちはなんと重苦しいものだったのか。祖国を取り戻したと同時に祖国に自らの居場所を失い、呆然と絶望するしかなかったポーランド人があの当時数多くいたことを想像させる。
一夜の恋にすがった亡命政府派の暗殺者とバーの女性が抱える孤独と絶望の深さに心打たれた。
モノクロの画面のシャープな絵の美しさに痺れた。
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突然の死が日常に入り込むのが当たり前となった戦時下の状況の下では、平時にはありえないような感動的な人間のすがたが見られることもあっただろうが、極度のストレスに晒される日々の継続のもと、平時には閉じ込められていたあさましく非道な行いも噴出していたに違いないと、私は想像する。
『この世界の片隅に』は、そうした極度にストレスフルな状況であっても、いやそういう状況であるからこそ、そうあって欲しいという人間のありかた、庶民の日常への願望が描き出されているように思った。
無垢な犠牲者である庶民を美化するのではなく、悲惨で痛ましい歴史的現実のなかに祈りと希望を求めたいという気持ちがこのような作品を作らせたのではないだろうか。
もしかすると戦時下にこういう日常が本当に存在していたかのもしれない。人間の生活のはかなさ、そのはかなさゆえの愛おしさ、美しさを淡々と優しく伝える作品だった。見ていて知らないうちに泣いてしまった。
帰りの電車のなかで、映画を反芻しまた泣いた。じわじわと心に迫る作品だ。
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お約束ギャグの小ネタ満載のフランスらしいバカ映画。この邦題はキャッチーだと思う。つい見に行ってしまった。ブラジルのリゾートホテルにバカンスにやってきた若い男女のグループが、奥地体験ツアーで遭難する話。ブラックで陰湿な笑いではなく、夏のリゾート地の浮かれた気分を反映したような陽性のおバカ・コメディに徹している。適度な下品さもいい。見終わると爽快な気分になる良質のコメディ。夏のニースにいるとこんな雰囲気を何となく感じるときがある。
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地味だけれど、曖昧ですっきりしない終わり方がもたらすずーんとした重みが、見終わった後、徐々に増してくる。家に帰り映画のことを思い返すと、静かにゆっくり憂鬱な気分になっていく。
日常のけん怠の積み重ねのなかで、夫婦関係が気がつくとうんざりとした惰性的関係になっている。お互いを慈しみあう愛情は枯れてしまった。顔を合わせると出てくるのは嫌みやあてこすりだ。互いが互いに甘える共依存関係の持続のなかで、くすんでしまった夫婦というのは、世の中にきっと数多いに違いない。気がつくと優しい言葉をかけることがなくなっている。相手を思いやる優しい感情さえ浮かばない。
そんな夫婦関係でも、長年一緒に生活をともにした配偶者が突然いなくなってしまったときには、解放感よりも喪失感にとまどう人間のほうが多いような気がこの映画を見てした。「生きているうちに優しくしておけばよかった」という後悔はかりそめのもので、とにかくあったものが不在になることによるガランとした喪失感にうろたえてしまう。精神を侵食してくる暗い虚無感をどうにかしてやりすごしたい。
『永い言い訳』は、愛しあうことを忘れてしまった夫婦をその物語の出発点にするという着想が素晴らしい。そしてパートナーを失った人間が、自分に襲いかかる喪失感と虚無感にもがきつづけることで、その死の空白を受け入れる過程を、冷徹に描いているところがすごい。
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2016/10/31(日)13時半〜17時 法政大学市ヶ谷校舎ボワソナードタワー3 階 BT0300
マンガ原作者・映画共同監督のユングさんの来日にともない、『はちみつ色のユン』の上映会とトークイベントが法政大学であったので行ってきた。
『はちみつ色のユン』を私が見るのは、この法政の上映会が5回目だった。2014年2月の文化庁メディア芸術祭開催中の上映会で私は2回見に行き、深い感銘を受けた私は、その後、6月に早稲田のフランス文学コースに開催協力を依頼し、上映会を行った。『はちみつ色のユン』は日本ではDVD、BDの販売が行われていない。見るには配給元のトリウッドに連絡をとり、しかるべき上映料を払ってDVD/BDを借り、上映会を行わなくてはならないのだ。早稲田の上映会は上映料は大学に出して貰ったが、トリウッドとのやりとりやチラシの制作、会場準備は私ひとりでやった。70人ぐらい見に来てくれた。本当は大教室が埋まる200人ぐらい来て欲しいと思っていたのでちょっと残念な気持ちだった。
早稲田の上映会のときは、上映会の前日に器材の確認のため、ひとりで夜の教室に行ってBDを見た。ちゃんと器材の操作ができるように確認できればよかったのだが、上映しはじめると、2月の芸術祭のときに六本木で2回見たにもかかわらず、見入ってしまい、結局、最後まで見てしまった。そしてその翌日の上映会でももちろん見た。これで4回。
先日の法政で5回目。民族のアイデンティティと家族関係の問題を通して自分の居場所を探すというのは、文学的には極めてありふれたテーマであり、このテーマの作品というのはうんざりするくらいたくさんある。民族アイデンティティの問題で葛藤した経験などまったくない(そうした経験を持ち得ない)私のような人間が、なぜこのテーマの作品に強く惹かれてしまうのかを正確に説明することは難しい。
ベルギーの社会、そして家族のなかに自分の居場所を見失ったユンの姿には、私たちが抱える自己存在についての問いかけ、孤独感、不安感が、先鋭的なかたちで集約されているように感じるから、ともっともらしく語ることもできないわけではないけれど、その切実さにおいてはユンと私のあいだには雲泥の差があるという前提を忘れてはならないだろう。
私はこの映画を五度見て、五度とも見ながら泣いた。この映画のなかで一番悲壮な場面は、私にとってはではあるが、思春期のユンが自分が韓国出身であることを受け入れることができず、よりによって韓国を植民地化し、蹂躙した日本に自分のアジア人としてのアイデンティティを投影しようとするところだ。ユンのねじれかたが痛ましくてならない。幼いころから青年期になるまでのユンは、自分とその外側の世界に存在する噛み合わなさを常に感じつつも、それを対象化して認識するすべを持たなかったし、その違和感を訴えることもできなかった。訴える相手もいなかった。彼自身もそのもぞもぞする居心地の悪い世界の一部だった。そのじわじわとした黒い違和感の存在が日常的に無視できないほど大きくなったときに、彼はベルギーの家族と一緒に住むことができなくなってしまう。しかしその違和感は家族と離れても解消されることはない。ご飯にタバスコを大量に振りかける不健康な食事を続けたのは、自傷行為と言えるものであり、彼はそうした自傷行為を通じて緩慢な自殺を行っていたのだ。
この作品が悲壮なのは(そしてその悲壮さゆえに美しく、感動的なのだが)、幼き日から青年期にかけてユンが感じとっていた苦しみ、心の傷、彼が言葉にすることができなかった絶望を、黄土色がかった美しい色彩と優雅で洗練されたアニメーションの動き、静かで抑制された表現のなかで、淡々と提示して続けていたからだ。美しくノスタルジックな過去の思い出は、子供時代、どうにも解決しようがなかったユンの孤独と絶望を必ず想起させるものでもある。時系列に並ぶアニメーションによる回想を時折断ち切るドキュメンタリーのパートは、そうした子供時代の自分への優しさと切なさに満ちたコメントになっている。
映画では最後にユンは母を見出し、平安をとりもどすハッピーエンドになっている。しかしユンが本当にようやくはちみつ色の肌である自分をそのものとして受け入れることができたのは、彼が大人になりこの私小説的バンドデシネを書き終えたあと、そしてこの映画を完成させた後ではないだろうか。そしてこの自伝的作品を作る過程にも、彼は過去のつらい傷をもう一度、追体験しなくてはならなかった。
私はこの素晴らしい作品が日本ではまだごく限られた観客しか得られていないことが残念でならない。日本語訳が出ている原作マンガ(私はもちろん購入しているが、子供たちが何回も繰り返し読んだのでボロボロになってしまった)ももっと広く世に知られ、読まれるべきものだ。上映会のみという形態にもよさはあるのだけれど、できるだけ早く作品がDVD/BDとして発売され、さらに広い観客を獲得できるようになって欲しい。
今回のトークイベントでは、原作マンガの翻訳者、朝鮮史の研究者、フランス文学の研究者、社会学者、アニメーションの研究者といった様々な分野の人が集まった。時間の関係でひとり10分程度という短い時間の発表になってしまったのは残念だったが、『はちいつ色のユン』は様々な領域の関心を引き出す間口の広い作品であることが確認できた。この作品を核に、科研費の共同研究などで超領域的なシンポジウムがいつか行えるといいのになと思った。
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5月にケラリーノ・サンドロヴィッチ演出、麻実れい主演の舞台を見た。アメリカ版のマクドナーといった感じの強烈な皮肉と荒々しい言葉で、とある家族の欺瞞が無残に暴かれていく作品で、舞台作品としてとても面白かった。主人公は薬中で、家族というものを根本的に信用できず、激しく憎悪し、その容赦ない毒舌で家族のメンバーを追い詰めるエキセントリックな老女だ。もちろんこの憎悪と激しさは、(たとえそれが欺瞞であったとしても)家族愛への激しい渇望と彼女の孤独感、人間的な弱さと表裏一体となっている。
映画版ではメリル・ストリープが主演であることを知り、個人的には麻実れいよりもメリル・ストリープのほうがこの作品には合っているような気がして、DVDを借りた。映画版はストリープ以外も、ジュリア・ロバーツ、、ユアン・マクレガー、カンバーバッチなど人気俳優が揃っている。主人公の老女の退廃と孤独の深さは、やはりストリープのほうがニュアンスに富んだ演技をしている。麻実れいの怪物ぶりの迫力は相当なものだし、映画でロバーツが演じた長女を舞台で演じた秋山菜津子とのやりとりの緊迫感、リズムは痛快であったが、舞台というジャンルの特性もあり、記号的でニュアンスに乏しいものであったように、映画版を見たときに思った。
映画版はとても丁寧に作ってあったのだが、ドラマとしての緊迫感は舞台版が上かもしれない。緊迫したやりとりをするっと反転させる脚本の作りの巧さについては、映画版で見たときも「おっ」と思わず声が出てしまうほど鮮やかで素晴らしい。
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伏線が巧みに回収される脚本はよくできている。田舎の風景、習俗の丁寧な描写もよかった。しかしこうした青春アニメで具現化される主人公の男女の人物造形には、私はまったく共感できない。可愛くて溌剌としていて真面目な女の子という作り手や観客の願望が露骨に投影されたヒロインにはリアリティを感じないし、男の子も変に行儀がよくてその言動がかっこよすぎるように思える。細田守の『時をかける少女』でも同じような居心地の悪さを感じたのだけれど、こうした男女像が若いカップルの定型、ある種の理想的モデルとなっているのだろう。こういうファンタジーのなかには私は居場所がないなと思う。