閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ぼんとリンちゃん

ぼんとリンちゃん(2014)

  • 上映時間 91分
  • 初公開年月 2014/09/20
  • 監督: 小林啓一 
  • 脚本: 小林啓一 
  • 撮影: 小林啓一 
  • 録音: 日高成幸 
  • 出演: 佐倉絵麻 ぼん(四谷夏子)、高杉真宙 りん(友田麟太郎)、桃月庵白酒 べび(会田直人)、比嘉梨乃 肉便器(斎藤みゆ)
  • 評価:☆☆☆☆

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腐女子の女子大生ぼんと彼女の弟分の可愛い男の子、リンちゃんが、上京してネットゲームで知り合った中年オタクおやじのべびちゃんと、「肉便器」と呼ばれるぼんの親友の女の子、みゆちゃんを連れ戻そうとする話。

冷静で頭でっかちでやけに達観したぼんの饒舌が、彼女自身を守る鎧であることがよくわかる。彼女がこうした鎧を身につけたのは彼女が深く傷ついた経験があるからだ。しかし映画のなかでその傷は語られない。ぼん役の佐倉絵麻のクールな美貌とオタク的記号を具現したリアルな演技、そして中年オタクオヤジの気持ち悪さ、情けなさを見事に表現した落語家、桃月庵白酒の芝居が素晴らしい。

この映画のぼんを見て、今のちょっと自虐系、冷笑系女子高生のふるまいの型みたいなものの存在を確認できた。こういったタイプの女子はたぶん実際にかなり多いような気がする。

私が高校生のころは橋本治の『桃尻娘』のシリーズの影響下にあって、私は東京の大学に行けばあんな女の子に会えるのではと思ったし、自分もあのような人になりなかった。そして小説の主人公の榊原玲奈が入学した大学の同じ学部に入ったわけだが、実際には榊原玲奈みたいな大学生に私は出会うことがなかった(いたのかもしれないけれど)。

キノサキノマトペ

www.seinendan.org

作・演出:ロマン・コロン

出演 :根本江理 鈴木智香子 井上みなみ (以上、青年団) 西村由花 船津健太 横田僚平(以上、無隣館)
照明:西本 彩
衣裳:兼松 光
舞台美術アドバイザー:鈴木健
舞台監督:海津 忠
音響:小林勇陽(NPO法人プラッツ)
通訳:原 真理子

上演時間:60分

劇場:こまばアゴラ劇場

評価:☆★
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日本語のオノマトペの豊かさにフランス人が興味を持って作ればこんな作品になるだろうなと予想したとおりの作品だった。奇妙な扮装の登場人物(動物、オブジェ)たちがオノマトペとフランス語・日本語・英語を交えた言語でほぼ意味不明の会話を行いながら、城崎温泉の外湯を巡るという話、のようだ。

いかにもフランス人演出家が思いつきそうなアイディアであり、「ね?面白いでしょ?」と言われているように突きつけられる作品ではある。日本人演出家にはこんな芝居は作れないだろう。こういった「知育遊戯」的な作品の面白さが私にはまったくわからない。こうした芝居をわざわざ作る意義もわからない。

喜劇仕立てになっていて、蛸になった鈴木智香子の演技の強引さはそれなりに強烈ではあったが、私には面白いと思える場面はなかった。まったく笑えない。作品の素朴過ぎる意図に乗っかって「笑ってしまう」ことに強い抵抗を感じるタイプの作品だった。「あー、俳優たちはよくやるなあ、きつそうだな」とは見ていて思ったが。

言語を使わない作品ということで、作品の作りからみても、小さな子供も観客に想定していると思うのだが、子供はこの意味不明の音声のやりとりを一時間楽しんで見ることができたのだろうか。

奇跡の教室〜受け継ぐ者たちへ

奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ(2014)LES HERITIERS

kisekinokyoshitsu.jp

  • 上映時間 105分
  • 製作国 フランス
  • 初公開年月 2016/08/06
  • 監督: マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール 
  • 製作: マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール、ピエール・クベル 
  • 脚本: アハメッド・ドゥラメ、マリー=カスティーユ・マンシヨン=シ
  • ャール 
  • 撮影: ミリアム・ヴィノクール 
  • 編集: ブノワ・キノン 
  • 音楽: ルドヴィコ・エイナウディ 
  • 出演: アリアンヌ・アスカリッド、アハメッド・ドゥラメ
  • 映画館:角川シネマ新宿
  • 評価:☆☆☆

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パリ郊外の移民地域にある高校の話。学級崩壊寸前の荒れたクラスの子供たちが、一人の歴史教師の導きにより、いい子になっていく。「アウシュヴィッツ強制収容所の子供と若者たち」というテーマでグループ学習を行い、コンクールに応募するという提案を歴史教師が生徒たちに行う。最初は難色を示していた子供たちも学習が進み、知識が増え、収容所生存者の証言を聞くうちに、積極的にこの学習に取り組んでいくようになる。

冒頭の場面が印象的だ。イスラームのスカーフを身につけた卒業生が成績証明書を取りに学校にやって来たが、学校側はスカーフが「宗教的なシンボル」であるから入校を固くなに許可しない。卒業生は激しく学校を批判する。

学校など公的領域における「非宗教性」というルールが、アラブ人差別・排除のための口実になっているというフランスの現実について、この監督がどのように考えているのかははっきりとは示されていない。しかしこの映画で印象的なのは、冒頭の場面をはじめ、いくつかの場面で示されるフランス社会の反イスラム的情景である。バスでアラブ人が白人老女に席を譲ろうとして声をかけるが、白人老女はそれを聞こえないふりをして無視をする。イスラムに改宗して「プライム」というイスラム名で点呼されることを繰り返し要求するものの、それを冷たく拒絶する教員。アラブに対するフランスの建前をどう監督が捉えているのかというのは宙ぶらりんにしたまま、こうした場面が時折挿入されている。

この映画で優れているのは前半部の荒れた教室の描写のリアリティである。こうした荒れた集団を教師がコントロールするには、教師の人格や知識だけでは不可能だろう。何らかの心理操作の技術が必要となるはずだ。

映画の不満は生徒たちの「改心」にあたって、教師がどのように介入していったかのディテイルがしっかり提示されなかった点だ。また後半は実話に基づくとはいえ、図式的な美談にまとまりすぎているが不満だった。実際にはいたはずのあの集団から落ちこぼれてしまっている生徒の存在を想像しながら見た。

ロベール・ルパージュ『887』

ロベール・ルパージュ「887」(日本初演) 東京芸術劇場

  • 作・美術・演出・出演:ロベール・ルパージュ Robert Lepage
  • 作曲・音響:ジャン=セバスチャン・コテ Jean-Sebastien Côté
  • 照明:Laurent Routier
  • 劇場:池袋 東京芸術劇場
  • 評価:☆☆☆☆☆


私がこれまで見たルパージュの作品のなかで最も優れた作品だと思う。そして私が見た彼の作品のなかで圧倒的に好きな作品だ。

ケベックの演劇人としてのルパージュによるナショナルかつパーソナルな物語。洗練された演劇的仕掛によって、商業主義とも結びつきうるユニバーサルな芸術表現に到達したルパージュが、ケベック現代史をこのように正面から、彼自身の個人史と絡め率直に描き出していることに感動した。

ルパージュを彼の個人史の想起に導くきっかけになったのは、1970年の『詩の夜』で発表されたミッシェル・ラロンドの詩、« Speak White »をルパージュが暗唱して朗読しなくてはならなくなったことだラロンドの« Speak White »は、イギリス系住民の支配のもとで抑圧され、民族としての尊厳を奪われていたフランス系カナダ人であるケベック人の民族意識に強烈に訴える内容の詩だった。« Speak White »は、ケベック人としてのアイデンティティを覚醒、鼓舞させる歴史的事件となった。ケベック人でこの詩を知らない者はいない。ケベックに関心を持つ者でこの詩を知らない者はいない。

Speak White par Pierre Falardeau, Julien Poulin - ONF
Michèle Lalonde « Speak White »

youtu.be


『887』はルパージュの家族の物語が、ケベックの現代史の重大事件を参照しつつ、ルパージュならではの驚異に満ちた多彩な演劇的幻想のなかで、描き語られる一人芝居である。


高さ2メートルほどのドールハウスのような集合住宅(中では人の生活する様子が映し出されている)などミニチュアの舞台美術で過去の記憶が再現される。そこはルパージュが幼少時、両親と兄弟姉妹とともに暮らしたケベック市内のアパートである。887はこのアパートの住所の番地であり、この数字が彼の記憶を蘇らせるキューとなる。


演劇人として世界的名声を獲得し、ケベックを代表する舞台芸術家となったルパージュの出自はケベックのフランス語系住民の労働者階層だった。彼の父は、軍隊を退いたあと、タクシー運転手の仕事で家族を養っていた。家族は父、母、そしてルパージュと兄、姉、妹の4人兄弟。6人家族には手狭なアパートだったが、そこにさらにアルツハイマーを発症した父の母が同居しはじめ、家族の人間関係はギクシャクしたものになる。農村型カトリック社会であった当時のフランス語系カナダ人にとって、これくらいの家族はごく普通のことだったはずだ。ルパージュの幼少期である1960年代は、ケベックでは「静かな革命」という社会改革が進行していた時代であり、フランス語系住民は信仰を捨て、それまでのカトリック教会の精神的支配から逃れ、政治が主導した社会制度改革のなかでケベック人としての民族意識が高まり、独自のアイデンティティを確立していく時代でもあった。カナダ連邦から離脱して、独立しようという機運も高まった時代である。


ケベックナショナリズム高揚のさなかで発表されたラロンドの« Speak white »は、イギリス系住民の支配と差別を激しく糾弾するその内容により、ケベック人による民族的アイデンティティの文学的マニフェストとなり、一気に人々のあいだに広まった。


「静かな革命」のなかで行われたケベックナショナリストたちのテロリズム、そしてその最中にケベック市で起こった連続少年誘拐殺人事件。ド・ゴール将軍の演説。こうしたケベック人が記憶として共有する社会的事件とともに、ケベックの平均的労働者階級であるルパージュ家についての個人史が語られる。退役軍人である父は、ケベック独立派には距離を取る。連邦制支持者であるようだが、だからといってケベック独立派の主張を否定することはできない。母親はケベック独立派を支持しているようだ。しかし認知症の老婆をかかえ、貧しいなかでぎりぎりの生活を送るルパージュ家は、こうしたケベック社会の変動にふりまわされることはあっても、その渦中からは外れた場所にいる。


1980年代以降に行われた二度の住民投票を経て(どちらも僅差でケベック独立が否決された)、現在のケベックは連邦制離脱の熱気はかなり弱まっている。80年代以降は、それまでの仏語系、英語系住民に加え、世界の様々な国と地域から大量の移民がケベック(とりわけモントリオール)に定着し、ケベック社会はかつてよりはるかに多様な多民族・多文化社会になっている。
そうした時代にルパージュは再びラロンドの民族主義な詩、« Speak white »を詩の夕べで読むことになった(1989年にイタリア系移民作家のマルコ・ミコーネが、フランス系住民の横暴を告発する« Speak white »のパロディである詩« Speak what »を発表し、物議をかもしている、そういう時代・社会の今である)。ルパージュは今だからこそ、ケベックナショナリズムを冷静に評価し、« Speak white »の詩を通して、かつての自分たちの姿をケベック現代史のなかで客観的に見直し、芸術作品として加工し、発表することができたのだ。
ルパージュの作品というと、スペクタクルとしての技巧の素晴らしさには感嘆するけれど、その驚異は脚本の薄さゆえに空虚に感じられることが多かった。今作ではスペクタクルの仕掛が、脚本とうまく連動し、その表現に説得力を感じた。ただケベック現代史のとらえ方は教科書的過ぎるように感じられラディカルな問いかけはなかったし、歴史と個人史の絡ませ方も巧いけれど定型的だとも言える。そうした物足りなさはあるにせよ、この作品が傑作であり、私が最も好きなルパージュ作品であることは間違いない。授業でも紹介したいし、ケベック学会のメンバーにはできれば全員に見て貰い、感想を聞いてみたい作品だ。


私は2013年夏にケベックモントリオールに三週間の研修を受けて以降、すっかりケベック贔屓になってしまったのだけれど、ルパージュによって演劇的に概観されたケベック現代史を見て、自分がなぜケベックに惹かれたのがよくわかった。現代のケベックは豊かで洗練された文化を持った刺激的な場所だ。自然も豊かで、人の応対の感じのよさもパリとは比べものにならない。モントリオールでは、フランス語を話す人々でこんなに物腰が穏やかで親切な人たちがいたことが、ちょっと驚きだった。あまりにも心穏やかに過ごせるので、回りがフランス語なのに、外国にいる感じがしないのだ。私がケベックに惹かれたのは、しかし、おそらく何よりも、ケベックがその文化・自然・社会の豊かさにもかかわらず、常に周縁に自らを位置づけ、その周縁性を常に問い続ける存在であるからだと思う。

iaku『エダニク』

作・横山拓也
演出・上田一軒
照明:岡田潤之
舞台監督:青野守浩
音響:星野大輔(サウンドウイーズ)
出演・緒方晋(The Stone Age)、村上誠基、福谷圭祐(匿名劇壇)
劇場:三鷹市芸術文化センター 星のホール
評価:☆☆☆☆☆
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『エダニク』とは枝肉のことだ。「家畜を屠殺後、放血して皮をはぎ、頭部・内臓と四肢の先端を取り除いた骨付きの肉。普通、脊柱に添って左右に二分したものをいう」(三省堂大辞林』)。劇作家の横山拓也の作品で最初に見たのがこの作品だった。私はこの後、数本の彼の書いた戯曲の公演を見ていて、いずれもとても面白いのだけれど、私はこの『エダニク』が一番優れた作品だと思う。『エダニク』は食肉解体工場を舞台とした3人の男性が登場人物の作品だ。今回は私が見た三回目の『エダニク』だったが、台詞劇の醍醐味を堪能できる会心の出来だった。三人のキャストのうち、大阪弁のベテラン職人を演じた緒方晋(The Stone Age)以外の二人は、新しいキャストになっていたが、役柄と俳優の雰囲気は台本に変更が加えられていないにも関わらずしっくりはまっていた。
私が『エダニク』を最初に見たのは、帰省中に伊丹のアイホールだった。二回目は数年前にアトリエ・センティオで。今回は三鷹市芸術文化センターの星のホールでの公演である。星のホールは300席ほどの規模だが、これまで大阪を中心に活動してきた横山拓也のユニットiakuは東京ではまだ知名度が低くて、客席が埋まらない。昨年は別の作品で星のホールで公演していたが、集客にはかなり苦労していた。今回は代表作の『エダニク』の公演で、チラシもかなり広範囲に挟み込んだようだけれど、土曜のマチネ公演にも関わらず客の数は三ケタに届いていないだろう。
『エダニク』の登場人物は3人だけだ。大阪からやってきた腕のいいベテランの職人玄田、その同僚の沢村、そして彼らの食肉解体工場の最大の得意先である養豚業者の社長の息子である伊舞。上演時間は約90分で、舞台上で進行する時間と実際の時間が同じの一幕物だが、劇の終盤に一回だけ暗転が入り、その暗転のあいだに一週間の時間の経過がある。場は食肉解体工場の休憩室だ。
屠場が舞台となれば、差別にかかわるデリケートな問題とも関わる。部落差別の問題はこの作品では前面に出てくることはないが、作品の事件の背景として控え目に響く通奏低音のように丁寧に、誠実に言及されている。屠場の作業についてもしっかり取材していることを伺うことができた。
俳優の演技は、青年団の演劇を想起し、比較したくなるような、乾いたハイパーリアリズムで軽やかなリズムで表現される。間の取り方、声の調子、大きさなどが精密にコントロールされている。食肉解体工場の三人の人間関係は、「世の中」の関係性の縮図となっていて、職業差別、社会階層、職場内力関係など様々なヒエラルキーに翻弄される人間のやるせなさをリアルに描き出されている。タイプの異なる三人の男たちのやりとりの切実さと空回りには生活のリアリティが、悲喜劇的な状況のもとに凝縮され、それが軽やかなリズムのなかで表現されていた。
作品の寓意性は、リアリズムの劇行為とは対照的な洗練された舞台美術によって強調されている。ハイパーリアリズムの演劇だが、舞台美術は象徴性が高いデザインが選択されている。真っ黒な空間で、演技エリアとなる部分の床は一段高くなっていてその表面はつやつやとした光沢を帯びる人工的な場となっていた。演技エリアの床の上には、解体工場の控室には不似合いなスチール枠のガラステーブルと鋭角的なデザインの洒落た椅子が置かれている。上手には柱がぽつんと設置されていて、そこには内線電話が掛けられていた。この暗くて人工的な演技エリア内で、食肉解体の作業員の白い作業衣とコンビニ袋の白が鮮やかに浮かび上がる。この空間内で、会話の緊張関係に連動して変化する三人の登場人物の立ち位置の絶妙のバランスが、三人の関係性のメタファーになっていて、空間自体にも美しい緊張感に満ちた舞台絵を作り出していた。
脚本も、その脚本の魅力を十全に引き出した演出プランも、そして俳優たちのコントロールされた演技も、素晴らしい完成度の舞台だった。脚本はウェルメイド・プレイと言っていいような明瞭で心地よい展開を提示しており、作品の主題からしても、小劇場のマニアだけでなく、より広い観客に向けられた作品だ。しかも商業的なウェルメイド・プレイにはないような、曖昧ですっきりしない後味もスパイスとして加えられていて、そこがまた脚本の魅了になっている。
大阪時代に怪我をさせてしまった負い目からかつての同僚を庇っていた玄田が、結局その庇っていた同僚に(その同僚の弱さゆえに)「売られてしまう」という苦い現実、しかしそれを「まーしゃないわ」という大らかな諦念とともに受けとめて流してしまう玄田のリアリストぶりには「あー、わかるわかる」と思わず心の中でうなずきたくなったし、そこで示された人間の弱さと強さの対比には大きな感動を私は覚えた。
そうしたドラマとしての面白さに加え、作品自体の完成度の高さにも私は今回感嘆し、感動した。こんなに間口が広くて、しかも面白い作品なのに、東京での知名度が高くないために、三鷹芸術劇場星のホールの客席が満員御礼となっていないのが、本当に歯がゆい。東京では12日まで公演がある。もしこの文章を読んで興味を持った人がいれば、ぜひ見に行って欲しい。

南多摩演劇部 第三回校内公演『幕があれへん』

南多摩演劇部 第三回校内公演『幕があれへん』
南多摩中等教育学校3階特別講義室

中野守作『ピロシキ
高野竜作『煙草の無害について』

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南多摩演劇部は三年前に生徒たちによって設立された部員10名の小さな演劇部だ。
女子高生の俳優による「ピロシキ」と「煙草」、「B級ホラー映画」についての作品の上演を見てきた。いずれも不条理ファルス。上演中何度も大笑いした。観客の誰もが、ピロシキを食べながら、かぎ煙草を嗅ぎ、クソみたいにつまらないB級ホラーを見たくなるような公演だった。上演後、彼女たちの「演劇大好き」という思いの強さに心打たれて泣きそうな期気分になった。三年前にこの演劇部を立ち上げた三年生にとってこれが最後の校内公演となる。演劇に対する彼女たちの思い入れが、演劇部に対する愛着が、この公演には凝縮されていることを感じとることができた。


私がこの公演を八王子まで見にいこうと思ったのは、15年にわたって埼玉県東部の宮代町をベースに、平原演劇祭と称する地域演劇祭を個人でやっている劇詩人・演出家、高野竜の新作戯曲が上演されると聞いたからだ。三年生部員の一人が来月開催される平原演劇祭2016年第一部で上演される高野竜作の一人芝居『詩とはなにか』に出演するつながりで、今回、高野竜の新作が上演されることになったようだ。


出演者は3年生が二人、二年生が一人、一年生が二人。俳優は全員が女子だった。残りの5名の部員が演出、音響、照明、制作を担当する。日曜日の学校内での公演で、大風の天候だったにもかかわらう、学校外部からの観客もかなりいて、50名分用意したという客席は満席だった。
演目は二演目。中野守作『ピロシキ』と高野竜作『煙草の無害について』。高野の『煙草の無害について』は「煙草の無害について」と「ねと☆ぼん」という内容・形式ともに共通点がどこにあるかわからない二つのパートで構成されている。


最初に上演されたのは中野守作『ピロシキ』だった。『ピロシキ』は10分ほどの作品である。中野守は2003年に中野劇団を立ち上げ、関西を中心に公演を行っている演劇人だ。http://www.nakanogekidan.com/index.html 長編数作を含む80以上の脚本がウェブ上で公開されていて、なかでも『ピロシキ』は200を超える団体によって上演される人気作のようだ。登場人物は医者と患者の二人。患者のじん臓のひとつが「ピロシキ」になってしまったという話だ。医者の態度は基本的にひょうひょうとした態度で、患者のじん臓がピロシキになってしまったことを面白がっておちょくっているような感じもある。患者は自分のじん臓のひとつがピロシキになってしまったという事態を冷静に受けとめることなどできるはずがない。医者の無責任な言動に戸惑い、次第にいらだちが増大していく。ぼけとつっこみの応酬がテンポ良く行われる漫才のようなコントだった。表情をあまり動かさない医者の芝居はバスター・キートン風。これに対し患者はとまどいや怒りで表情がくるくる変化する。患者は診察を受けに来ているので二人は向き合って話しているはずなのだけれど、上演では二人とも客席のほうを向いて会話を交わすという演劇的表現によって不気味な不条理感が増していた。


『煙草の無害について』はもちろんチェーホフの一人芝居『煙草の害について』のパロディである。女子高生俳優があえて煙草についての芝居を演じるというちょっと挑発的なひねりがポイントだ。三人の演劇部員の女子高生が登場人物なのだが、この三人がいかにして高校で自分たちが『煙草の害について』を上演したものか知恵をしぼる。チェーホフがこの作品を書いた当時、紙巻き煙草はまだ普及していなくて、副流煙の害なども知られていなかった。そもそもチェーホフの作品で問題になっていたのは当時流行っていた嗅ぎ煙草であり、煙の害はない。

それではなぜこの作品の語り手のイワンは煙草の害を語るはめになったのか。今の日本の高校で、この作品を上演するにはどういう工夫が必要となるのかなど。高野竜の『煙草の無害について』は過剰な嫌煙社会となってしまった今の日本社会のあり方への風刺である。しかし同時にチェーホフの作品の解釈の提示であり、そのファルスの風刺精神への優れたオマージュとなっている。三人の女子高生演劇部員の名前はオリガ、マーシャ、イリーナであり、『三人姉妹』のイメージも彼女たちの言動には投影されている。演劇部員である現代の女子高生たちのアクチュアリティとチェーホフの二つの作品の世界をオーバーラップさせるという発想とそれを説得力のある作品として提示する技巧の見事さに感嘆する。高野竜の『煙草の無害について』は傑作である。


『煙草の無害について』では中央に、スリッパをマイクカバーとしたスタンド・マイクが設置されていて、劇中劇的場面はこのマイクを使って演じられることがあったのだが、『煙草の無害について』に引き続いて上演された『ねと☆ぼん』でもこのマイクがそのまま使われる。『ねと☆ぼん』は漫才仕立ての二人芝居で、そのやりとりは関西弁で行われる。『ねと☆ぼん』では、エド・ウッド脚本による『死霊の盆踊り』というB級ホラー映画の紹介が漫才仕立てで30分にわたって延々行われるという奇天烈な作品だ。『ねと☆ぼん』は造語で、「ネット上で盆踊りについて発信する個人ないし集団。実際に盆踊りをする行動力がないことを揶揄してこう呼ばれることが多い。」を意味する。「ウンコを90分見つめている方がまし」という伝説的なクズ映画『死霊の盆踊り』がいかに愚劣でくだらない作品であるかが的確に伝ってくる怪作。女子高生俳優二人による見事なプレゼンテーションにこのクズ映画をレンタルして見たくなってしまう。
フィナーレの挨拶は感動的だった。一所懸命やりきったことが言葉と表情から伝わってきた。作品を完成度の点から見るとまだまだ大いに改善の余地のある舞台ではあった。しかし高校生俳優にしかない魅力、高校生俳優にしかできない演劇があることを確認することができる素晴らしい演劇体験だった。


今日の公演に出た女子高生俳優は、来月22日に是政のカフェで行われる平原演劇祭で、高野竜作の一人芝居『詩とは何か』に出演する。『詩とは何か』は女子高生だけが演じることが許された作品であり、高野竜の数多い作品のなかでも最も美しい傑作だ。今日の公演を見て、私は来月の平原演劇祭を文字通り万障繰り合わせて見に行くことを決めた。

最高の花婿(2014)


QU'EST-CE QU'ON A FAIT AU BON DIEU?

  • 上映時間 97分
  • 製作国 フランス
  • 初公開年月 2016/03/19
  • 監督: フィリップ・ドゥ・ショーヴロン 
  • 製作: ロマン・ロイトマン 
  • 脚本: フィリップ・ドゥ・ショーヴロン 
  • ギィ・ローラン 
  • 撮影: ヴァンサン・マチアス 
  • 美術: フランソワ・エマニュエリ 
  • 衣装: エヴ=マリー・アルノー 
  • 音楽: マルク・シュアラン 
  • 出演: クリスチャン・クラヴィエ クロード・ヴェルヌイユ(父)
    シャンタル・ロビー マリー・ヴァエルヌイユ(母)
    アリ・アビタン ダヴィド・ヴェニシュ(次女の夫)
    メディ・サドゥン ラシッド・ベナセム(長女の夫)
    フレデリック・チョー シャオ・リン(三女の夫)
    ヌーム・ディアワラ シャルル・コフィ(四女の恋人)
    フレデリック・ベル イザベル・ヴェルヌイユ(長女)
    ジュリア・ピアトン オディル・ヴェルヌイユ(次女)
    エミリー・カン セゴレーヌ・ヴェルヌイユ(三女)
    エロディ・フォンタン ロール・ヴェルヌイユ(四女)
    パスカル・ンゾンジ アンドレ・コフィ(シャルルの父)
    サリマタ・カマテ マドレーヌ・コフィ(シャルルの母)
    タチアナ・ロホ ヴィヴィアン・コフィ(シャルルの妹)
  • 映画館:恵比寿ガーデンシネマ
  • 評価:☆☆☆☆★

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2014年にフランスで1600万人(およそ4人に1人!)が見たという大ヒット作品。
多民族多文化社会である現代のフランス社会ならではの娯楽喜劇映画。フランス語教員には見に行くことを強力に薦めたいし、教室で学生にも見せたい映画だ。


地方都市に住む保守的なブルジョワ夫婦には4人の美しい娘がいる。娘の結婚相手が、一人目がアラブ人、二人目がユダヤ人、三人目が中国人であることに夫婦はショックを受ける。四人目の娘の結婚相手はカトリックの青年だが、コートジボワール出身の黒人だった。


フランス人が一般的に持っている人種ステレオタイプがギャグとして用いられる。そして他民族、他宗教に対する偏見を互いに持っていることを自覚しつつ(あるいは自覚しているがゆえに)「人種差別」racismeという言葉に敏感に反応してしまうことも。こうした自己批評的で自虐的で皮肉な笑いはいかにもフランスっぽい感じがする。

この映画のなかでの「中国人は閉鎖的で何を考えているのかわからない」、「フランス人はわれわれアフリカから搾取した」といった台詞は実際に私もフランスで聞いたことがある言葉だ。こうした人種偏見的発言、他民族をからかうような発言は、フランスにいると耳にすることはまれではない。人種差別的なギャグも。われわれ日本人もいないところではかっこうのからかいの対象になっているはずだ。


映画はハッピーエンドで終わる。もちろんこんなハッピーエンドは、現実にはとうていあり得ないファンタジーであることは、多民族多文化の摩擦のなかで日々暮らしているフランス人たちは重々承知しているはずだ。このハッピーエンドはファンタジーではあるけれど、フランス人たちの願いがこめられている。こういった願いが込められた自己批評的風刺劇が大ヒットするというのは、フランス社会はまだ捨てたもんじゃないという風に思う。
現在、東京では恵比寿ガーデンシネマでしか上映していない。神奈川ほか地方ではこれから順次公開される。

四姉妹はみな美人だったけれど、なかでも四女役のエロディ・フォンタンが私好みの顔立ちだった。

牡蠣工場(2015)

 

http://www.kaki-kouba.com/

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岡山県にある漁港、牛窓の牡蠣加工場の労働風景が映し出される。猫のシロ、牛窓の海、リズミカルで機能的な作業過程、そこで働くひとたちの素朴で実直な姿。単調で散文的な労働の日々のなかに思いがけない詩情があることに気づかされる。しかし想田のカメラは甘い抒情だけに浸らせてはくれない。苛酷な労働環境とも言える牡蠣工場で働く人々と映画館でその映像を見る私たちとのあいだにある決定的な距離感も冷徹に想田のカメラは映し出す。中国人短期労働者を迎入れる様子を撮影することを拒否する工場主の言葉の強さ、背中を向けたその様子への想田の戸惑い、働き始めた中国人労働者の不安げな視線。こうした場面にも想田のカメラはしっかりと向けられていて、その戸惑いや不安を正面から受けとめている。ナレーションがないことによって、観客はその映し出される映像の人たちの心中、彼らがかかえる背景を、じっと深く想像することに導かれる。

アンダーグラウンド(1995)

アンダーグラウンド UNDERGROUND

 

評価:☆☆☆☆☆

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日本でロードショー公開時に見た。ナチスドイツ占領下のユーゴスラビアから映画製作当時のユーゴ紛争までの現代史をたどる。とにかく破天荒な人物たちによる破天荒な擬似現代史の物語だった。ブラスバンドによるジプシー風音楽の印象も強烈だった。

恵比寿ガーデンシネマでは1月中旬からクストリッツァの回顧上映をやっていて、20年前に見たこの作品の他、少なくとも『黒猫・白猫』、『ジプシーのとき』、『ライフ・イズ・ミラクル』は見たいと思っていたのだが、恵比寿が自分の普段の行動範囲から外れているし、何かと予定が詰まっていたりして、結局最終日の最終上映の『アンダーグラウンド』だけを見ることができた。

今さら私がここで書くまでもないが、これは超傑作だ。音楽、映像、言葉のアンサンブルが濃厚な詩的驚異を作り出している。主人公の一人、クロが何か行動するたびにブラスバンドがバックミュージックを演奏するというアイディアのばかばかしさは天才的だ。音楽映画として私が見た映画のなかでは最高の部類だ。映画のドラマツルギーのなかで音楽がしっかりと組み込まれていた。

とにかくずっと騒がしくて狂っていてこちらを引き込むようなのりがある。3時間近い長さだが退屈を感じない。俳優たちの個性も強烈だ。マルコとクロの無頼ぶり、そしてナタリアの軽薄さ、エゴイズム、そしてその享楽性ゆえに圧倒的な美しさ。映像の絵の美しさも見事だった。第三部で殺害されたマルコとナタリアの死体が、戦火のなか、燃えさかる電動車椅子に乗ったままぐるぐると円を描く場面はとりわけ鮮烈だった。他にも思わずあっと声を上げそうになる美しい場面がいくつかあった。

1995年に見たときも衝撃的だったが、今回の見たほうがより衝撃は大きく、感動も深まったのは、2000年以降、フランスでの教員研修でアルバニアボスニアセルビアマケドニアの教員たちと知り合い、そのうちの幾人かとはFacebookを通じて交流が続いているからだ。1995年はユーゴ紛争のさなかでその悲惨は報道やルポルタージュで伝えられていたものの、当時の私には自分とは関係ない遠い国の出来事で、その原因や状況についてはあまり興味を持っていなかった。今はバルカン半島地域で生まれ育ったフランス語教員数名と知己を得て、彼ら・彼女たちが経験してきた凄まじい歴史を『アンダーグラウンド』を通して想像せずにはいられない。

サウルの息子(2015)

サウルの息子(2015)SAUL FIA

www.finefilms.co.jp

  • 上映時間:107分
  • 製作国:ハンガリー
  • 初公開年月 2016/01/23
  • 監督: ネメシュ・ラースロー 
  • 脚本: ネメシュ・ラースロー 、クララ・ロワイエ 
  • 撮影: エルデーイ・マーチャーシュ 
  • 音楽: メリシュ・ラースロー 
  • 出演: ルーリグ・ゲーザ(サウル)
  • 映画館:ヒューマントラストシネマ有楽町
  • 評価:☆☆☆☆

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アウシュビッツ強制収容所で同胞たちをガス室に送り、その死体処理を行う任務を行う「ゾンダーコマンド」のサウルが、死体のなかに自分の「息子」を見つける。サウルはその遺体をユダヤ式に葬ることに異常なこだわりをみせ、危険や困難を省みず、葬儀を執り行うことのできるラビを収容所のなかで探し回る。

アウシュビッツ強制収容所での非人道的なユダヤ人虐殺の日々のなかで、ゾンダーコマンドのサウルは、絶望と諦念のなかで、人間としての感情を殺し、淡々と作業を行う。「息子」の埋葬という行為への狂気じみたこだわりの一点のみにサウルの人間性が集約される。彼の異常な行動の背景で展開するむごたらしく、救いのない風景は、ピントのぼけたぼんやりとした映像を通してより一層、生々しく伝わってくる。

地獄の情景の容赦なさに、見終わった後げっそりした気分になる。見てよかったような、見ないほうがよかったような。