閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

お嬢さん(2016)

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パク・チャヌクの暴走を堪能。期待通りの快作だった。悪意をむき出しにしたペニノといった雰囲気の変態的エロスの幻想劇だった。
和洋韓がごちゃまぜになった奇怪な亜日本の風景が面白い。韓国語訛りの日本語をとつとつと俳優に話させ、「日本人」を演じさせることで、その虚構的日本のまがまがしさはさらに強調される。
演じる者が演じているうちに自分が演じていた存在に内面まで侵食されていくいくさまは、マリヴォーやジュネの作品を連想させた。
第二部で種明かしがされてしまうので、第三部で結末がよめてしまう、そして予想した結末通りだったのが残念だった。二部までの展開はスリリングだったので、第三部でもういちどこちらの期待を裏切るような展開を期待していたのだが。
よくこんな映画に出るような女優を見つけてきたものだなと思う。女優のルックスはまさに作品の役柄が要求するものだった。
パク・チャヌクの変態性、暴力性、スピード感は、本当に爽快だ。

『STOP』(2016)

www.stop-movie.com

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こんなひどい作品は滅多に見られるものではない。予告篇を見た段階で、キム・ギドク福島原発を題材にどんな映画を作るのかは予想はついたのだが、その予想を上回る暴走ぶりに唖然とする。ギドクの狂気を私はなめていたのだ。

福島原発災害が起こったとき、そのすぐそばに住んでいた若い夫婦の話である。彼らは避難勧告に従い、東京に避難する。このとき、妻は妊娠十週目だった。国家からミッションを依頼されたらしい謎の男に、放射能によって奇形児が生まれる可能性が高いので、妊娠中絶を強く迫られ、夫婦は大いに動揺する。最初は夫は出産を望み、妻は中絶を希望していたのだが、夫は福島で放射線汚染地域に住み着く女性の出産の現場に立ち合い、彼女が奇形児を産んだのを見てから、考えを変える。逆に妻は福島の汚染地域に戻り出産を決意する。夫は電気使用こそ諸悪の根源と考え、福島の汚染鶏を東京の店に卸すなぞの男と、原発の電気の送電塔を破壊しようとする。

悲劇的状況においてエスカレートしていく激情に身を任せ、破滅まで突っ走るような常軌を逸した人物はキム・ギドクの作品ではおなじみだが、この作品では福島原発災害に関わる妄想に取り憑かれたギドクの想像力が暴走するままに、地理も時間も登場人物設定も、あらゆるリアリティがグロテスクに歪めらていく。

最初は反原発運動の一部が強調した奇形児出産というデリカシーない扇情的な情報に、キム・ギドクが乗っかり、放射能-奇形児という配慮のない悪質なデマ(と言ってもいいだろう)を中心に物語を作ったことに、嫌悪感を覚え、すぐに映画館を出たくなった。しかし、妊娠中絶を強引に迫り、国家の危機を語る謎の男とか、暴れる妻をガムテープでぐるぐる巻きにして東京のマンションに転がしたまま、福島に動物の写真を取りに行く夫とか、福島の汚染地域の廃屋に一人で暮らす妊娠中の狂女とか、福島の汚染地域の山林のなかで斧で鶏肉をさばき、焼鶏串に刺して、それを東京の焼き鳥に卸しに行く謎の男とか、またこの焼き鳥男がなぜか東京の送電事情にやたら詳しいとか、荒唐無稽な設定、人物が続々出てきて、妄想が暴走していくのに、不愉快と怒りを超え、唖然とするしかない。もう馬鹿馬鹿しくて笑うしかない。

ギドクの頭のおかしさは、こちらの想定をはるかに超えるものだったのだ。彼はおそらく真面目にこの映画を作ったはずだ。自分で製作し、配給先まで探している。そして入場料収入は熊本県震災被害者にすべて送るという。恐るべき狂気の情熱の映画だ。

ひどい作品ではあったが、こんな怪作を見られる機会はそうあるものではない。だからわざわざ観に行く価値はあったと言える。

平原演劇祭2017第4部 演劇前夜音読会&うどん会「や喪めぐらし」

平原演劇祭2017第4部 文芸案内朗読会演劇前夜&うどん会
「や喪めぐらし」(堀江敏幸「めぐらし屋」より)

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4時間半、一つの物語を聞き続けることはできるだろうか? 平原演劇祭で実際に経験したわけだが、これが案外できるものだなと。

平原演劇祭ではこれまでも「演劇前夜」と題され朗読形式の公演が行われたことは度々あった。しかし今回の平原演劇祭で異色だったのは、リーディング形式の公演でかつ公演演目が一作だけという点である。しかも上演時間は5時間と予告されていて、「うへ、本当に聞いていられるかな」とちょっと不安ではあった。

平原演劇祭では、途中の軽食時間も含め、再構成された数作品がシームレスに連続してされるのが通常の形だ。出演俳優4名が全員30代女性というのも、これまでの平原演劇祭とは異なる。だいたい平原演劇祭には10-20代の若い女優が多かった。場所は駒場東大前から歩いて十分ほどの区立集会所での屋内公演だ。

うどん込みとはいえ1000円(+投げ銭)の有料公演(これも無料公演、カンパのみが通常の平原演劇祭としては例外的と言える)、集会所に5時間こもって、朗読を聞く。こんな地味な企画で果たして観客はやって来るのだろうか、と思いながら会場に向かう。開演予定時刻の五分ほど前に会場の区立集会所前に到着したが、竜さんがひとりでその集会所の入口付近をうろうろしていた。開演間近なのに、主催者・演出家がいったい何をしていたのか。

「竜さん」と声をかけると

「ああ、二階だから」と虚ろな声で返事があった。

二階に上っていくと、会場入口に案内があった。

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和室の会議室だ。観客の数は15人ほど。和室に座布団で5時間、と思うと始まる前からちょっとだけげんなりした気分になる。ずっと集中して聞いているのはたぶん難しいだろうから、だらだら手元の手帖にメモや落書きをしながら聞いておくことにしようと思う。

正面に横長の座卓が並んでいて、スタンドが三台設置してある。中央にはなぜか秤が。ここが朗読エリアとなる。観客はその正面に座る。左側の窓は開け放たれていて、そこから風と外の物音が聞こえてくる。

平原演劇祭は予定より遅れて始まることが多いのだが、今日は朗読時間の正味で4時間20分かかるということで(これにうどんタイムが加わる)、17時に終えるために予定通り正午に始めると竜さんから説明があった。そして実際に正午にはじまった。

まず朗読者が一人だけ、座卓にやってきて読み始める。最初の朗読者は最中だ。朗読がはじまってから到着した客が数名いて、観客総数はおそらく20名ぐらいになったようだ。

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堀江敏幸の小説、『めぐらし屋』を最初から最後まで読み切るという公演だった。読み方自体には演出はごく控え目にしか入っていない。

最初に最中さんが一人で読み始める。彼女は読み始める前に、持っていたボールペンを永机の中央においてある秤にそっと乗せた。最中が朗読している途中で、二人目の朗読者の青木祥子が机の右端に座る。最中が25分ほど読んだところで、青木に朗読がバトンタッチされる。青木もボールペンを秤の上に置いてから、朗読を始める。秤にボールペンを乗せるというのが朗読を始める前の儀式のようだ。青木が読み始めると、最中は退場する。あとはほぼ20分ごとに朗読者が、大倉マヤ、石黒麻衣とリレーされる。

女優たちはそれぞれはっきりした、落ち着いた発声で、自然な調子でテクストを読む。セリフでの人物の演じ分けもごく軽いニュアンスを加えるぐらいで、演劇的な誇張を加えたりしない。まさに「音読」である。ただそのフラットな読み方のなかで、主人公の蕗子(語りは三人称体だが、彼女の視点に寄り添ったものになっている)が驚いたときの口癖だけが強調される。最初のうちこそ左側の開け放たれた窓から入ってくる風や周囲の物音(自動車の通過音や飛行機の音、たまに人の話声など)に気を取られることはあったが、作為を意識させない柔らかでニュートラルな口調に、気がつくと私は自然と語りのなかに入っていってしまった。私がこんなに辛抱強いとは。

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『めぐらし屋』の主人公の蕗子は40間近の独身女性だ。大学卒業後に友人のつてで倉庫管理会社に就職し、その会社でずっと働いている。蕗子は極度の低血圧でぼんやりとした人のようだ。回りの人間よりちょっとずれた感じのゆったりしたリズムで生きている女性だ。恋の雰囲気もない。母はすでに亡くなっている。母とだいぶ前に離婚した父が最近死んだ。蕗子は父との別居が長く、疎遠になっていたが、ただ一人の肉親ということで父が一人暮らしをしていたアパートの整理に向かう。遺品整理の折りに出てきたノートには「めぐらし屋」と書かれていた。そしてアパートに「めぐらし屋」の仕事依頼の電話がかかってくる。蕗子は謎に包まれた父の人生の秘密の調査をはじめる。緩やかな探偵小説のような物語だ。蕗子の回想や見聞きする人やものの描写がとても丁寧で柔らかい。孤独な父の人生をその娘である孤独な40女性がとつとつと追いかけていく。明らかになる事実はドラマチックな華やかさはない。ただ父の人生を押し開き、それとともに蕗子さん自身の過去の想い出が展開するなかで、平凡で退屈そうな彼女の人生が穏やかな光で照らされていくように感じられるようになる。

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地味な小説をただ読み聞かせるという地味な企画。単調さに変化を与えるためのささやかだが、効果的な仕掛けだが、長机の中央に置かれた秤である。うどんタイムの前の前半は、女優たちは自分が読み始める前に小さな秤にボールペンを置くという儀式を行った。後半は大型の秤のカゴのなかに上着を放り込んでいた。この秤がいったい何を意味しているのか私にはわからない。しかしその不可解さゆえに、そのひっそりとした存在感にもかかわらず、朗読を聞いているさなかでも秤を気にせずにはいられない。

朗読のしかたもいくつかのバリエーションがあった。最初のうちは一人ずつ読んでいたが、二人あるいは三人で読んでそれぞれが異なる人物を担当する場合や、四人全員がずらりと一列に並んで読むところもあった。

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開始2時間半後、午後2時半にうどんタイムが入った。開始が正午だったし、うどんが出ることは予告されていたので私は昼ご飯抜きで来た。だからかなりお腹が減っていた。カセットコンロ二台が出され、そのうち一台で竜さんがうどんを茹で、もう一台ではキノコと薄揚げのタレを温めた。もう一つ冷たいタレが用意されていて、そちらは赤いタデとみそ仕立てだった。「蓼食う虫も好き好き」のタデである。こちらはちょっと酸味がある。タデは鮎の塩焼きに添えられるタデ酢の原料でもある。

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こんな落ち着かない場所で飯を食べるのは、実は私は苦手なのだが、なぜか平原演劇祭では食が進む。タデ味噌冷タレは初めての味だったが、慣れるとなかなか行ける。キノコ・薄揚げは和風出汁ではなく中華仕立てのようだ。こちらのタレで食べるうどんも美味しい。結局四杯食べてお腹いっぱいになってしまった。

午後3時10分過ぎに後半開始。文庫版で約190頁の『めぐらし屋』を読み終えたのは、午後5時10分ぐらいだった。文庫版200頁の小説を、最初から最後まで無理のないスピードで音読すると、およそ4時間半ぐらいかかるということだ。足は崩してあぐら座りだっったとはいえ、座布団、背もたれなしで5時間近く座っているのは、やはりちょっとしんどいことではあった。終わったときには、マラソンを完走したかのような(したことは実際にはないが)達成感、爽快感がある。そして5時間のあいだ、同じ物語で時空を共有した人たちとのあいだにもゆるやかな共同体意識のようなものが。飯も一緒に食べたのでなおさらだ。でもそれはあくまで静かな余韻のなかでの穏やかな感動だった。

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朗読だけというストイシズムにもかかわらず、私は退屈することなく、物語に聞き入ることができた。こんな長時間、ひとつのお話を聞き続けるというのは私には初めての経験である。

私の研究対象のひとつである中世フランスの韻文物語詩には4000から5000行の作品が多い。中世、当時はジョングルールと呼ばれる芸人が、貴族の館や町辻などで、人びとに語って聞かせるものだった。そうやって語り継がれたもののごく一部が、だいぶ後になって手写本にテクストとして記録されたのだ。

17世紀のフランス古典主義時代の戯曲は、12音節詩行で1500-2000行、普通に上演して2-3時間かかる。中世の韻文物語詩はこの2-3倍の長さだが、果たして声を出して読まれたといっても、人びとはどういう具合に作品を受容していたのだろうと思っていた。今日の演劇前夜音読会で4-5時間、語り続ける、聞き続けるということは、それほど特殊なことでないことがわかった。特に変わった演劇的技巧を用いなくても、ちょっとした工夫があれば人は物語を聞き続けることができる。

秤の仕掛けの意味、企画と作品選択の動機、うどんの選択の理由など、主宰の高野竜に訊ねたいことはいくつもあったのだけれど、あえて何も聞かずにそのまま帰った。

Tokyo fiancée (2014)

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監督 : Stefan Liberski

脚本 : Stefan Liberski, d'après le roman Ni d'Ève ni d’Adam d'Amélie Nothomb
時間 : 100 minutes
出演:Pauline Étienne : Amélie (pour Amélie Nothomb)、Taichi Inoue : Rinri、Julie Le Breton : Christine

評価:☆☆☆☆

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ベルギー人女性作家、アメリ・ノトンの小説、Ni d'Adam ni d'Eveを原作とする映画。2015年にフランスなどで公開されたが、日本では未公開。日本人になりたくてしかたない20歳のアメリが来日。東京で彼女のただ一人のフランス語の生徒になったお金持ちの日本人男性と恋に落ちる、という話。

ベルギー人女性を主人公とする『ロスト・イン・トランスレーション』といった趣の作品。フランスの日本に対するステレオタイプ、彼らが見たい日本の姿を知るうえで、非常に興味深い作品だった。

日本版DVDがなくて、フランス語版で見たがアメリが日本人相手にフランス語を話しているという設定もあり、フランス語が聞き取りやすい。
主演のポリーヌ・エティエンヌが可愛い。彼女が映画のなかでの服装もおしゃれで可愛らしく、東京の風景とよくマッチしていた。彼女が裸になる場面がいくつもあるのだが、おっぱいもきれいだった。

愛人ジュリエット(1950)JULIETTE OU LA CLEF DES SONGES

愛人ジュリエット(1950)JULIETTE OU LA CLEF DES SONGES

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2003年にパリのオペラ・ガルニエで見たリチャード・ジョーンズ演出によるマルチヌーのオペラ《ジュリエットあるいは夢の鍵》は、私がこれまでに見たスペクタクルのなかでも最も印象深い作品だ。夢のなかで主人公のミシェルは、《忘却の村》に迷い込む。そこには彼が愛した女性ジュリエットがいた。彼はこの村でジュリエットを探し、歩き回る。この忘却の村の住民たちは過去を記憶しておくことができない。過去の不在である不安感から逃れるために、住民たちはこの村を訪ねる人たちに話を乞い、それを自らの過去の記憶としている。

マルセル・カルネ監督、ジェラール・フィリップ出演の映画版はずっと見たかったのだが、ようやく見ることができた。キリコの絵画で描かれる風景を思い起こさせる城塞、詩的で象徴的な響きの台詞が、幻想的で不安定な夢の世界を描き出し、それが実際には窃盗の罪で投獄されるミシェルの現実と対比をなしている。夢のなかでのミシェルの恋人、ジュリエットは彼が追いかけても、夏の日の逃げ水のようにすっと遠ざかってしまう。捕まえられそうで決して捕まえることができない、そのもどかしさの表現がいい。到達できない幻想の愛、理想の恋人の物語だ。

オペラ版と映画版では、話の展開が異なるように思った。ジョーンズ演出のオペラ版を見たのは15年前なので細部は覚えていないのだが、ミシェルがジュリエットと知り合ったときのエピソードがあったように思うし、夢のなかの忘却の村の彷徨がもっと強調されていたように思う。オペラ版もまた見てみたいし、ヌヴの原作版も読んでみたい。

わたしは、ダニエル・ブレイク(2016)I, DANIEL BLAKE

danielblake.jp

  • 製作国:イギリス/フランス/ベルギー
  • 初公開年月:2017/03/18
  • 監督: ケン・ローチ 
  • 製作: レベッカ・オブライエン 
  • 脚本: ポール・ラヴァーティ 
  • 撮影: ロビー・ライアン 
  • 編集: ジョナサン・モリス 
  • 音楽: ジョージ・フェントン 
  • 出演: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ
  • 映画館:シネ・リーブル神戸
  • 評価:☆☆☆☆☆

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社会的弱者を蹂躙し、絶望と無気力に導く社会システムの理不尽に対するケン・ローチの激しい憤りが伝わってくる作品だった。私たちは怒りを表明しなくてはならない。決してあきらめてはならない。ケン・ローチの作品は、正しく生きるというのはどういうことなのかを教えてくれる。

私はこの映画で描き出される登場人物の強さと弱さに何度も泣いた。権力を持つものの理不尽で無礼な対応に対して、弱者はどれほど強くならなければならないか。そして社会・組織の横暴に対して、個人はどれほど弱いものなのか。強さと弱さの現実をこの作品ははっきりと提示している。

はっとさせるような悲壮で美しい場面がいくつかある。最初に私が思わず涙したのは、福祉事務所の申請で困窮するケイティ母子を邪険に扱う職員に対し、ダニエルが決然と異議申し立てをした場面だ。私もまた自分の身の回りの人間が被る理不尽に対して、はっきりと抗議を行えるような人間になりたい。

配給所で思わずケイティが缶詰をその場で開けて食べてしまう場面もたまらない。ああいう情景を思い付き、作品に挿入できるローチのアイディアは驚くべきものだ。ずっと我慢してきた彼女は思わず缶詰を開け、その中身を立ったまま口にする。そのみじめさに崩れ落ちるケイティを受け止めるダニエルをはじめとする周囲の人間の心優しさに胸打たれる。

福祉局での対応に絶望したダニエルが、スプレーで福祉局の壁に対応を告発する怒りの落書きをする場面にも思わず背筋が伸びた。あの怒りの表明でもって彼はかろうじて人間としての尊厳を表明できた。あの落書きは彼だけではない、社会システムから虐待される弱者たちの悲痛な叫びであり、やりきれない憤怒の怒号だ。

そしてぼろぼろになったダニエルを訪ねるデイジーのドア越しのセリフ。「あなたは私たちを助けてくれた。今度は私たちがあなたを助ける」。この言葉に傷つきぼろぼろになったダニエルは人間を取り戻す。

社会の不条理に押しつぶされそうになりながらも、必死でそれに抵抗し、人間としての尊厳を守ろうとするダニエルとケイティの悲壮な闘いが、いくつもの感動的な場面を作り出していた。

 

平原演劇祭2017第3部「芝がするどく鳴ってゐる」

togetter.com

  • 日時:2017/3/19(日)13:00 - 16:00

  • 会場:府中是政豆茶房でこ

  • 料金:1000円+投げ銭(ドリンク付)

  • 出演:さやか、角智恵子、ひなた、暁方ミセイ、MEW、戸川裕華、中沢寒天、酒井康志、高野竜

  • 演目:「詩とは何か」(高野竜作)、21世紀版「小岩井牧場」(宮沢賢治原作、暁方ミセイ版)、「孤立が丘」(高野竜作)ほか

バングラデシュ産ナツメヤシのラビオリとサトウキビ純100ぶっかき黒砂糖です

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平原演劇祭の開催情報は、主宰の高野竜のtwitter(@yappata2)が頼りとなる。各部の公演は一回きりなので、このアカウントからの情報をうっかり見逃してしまうとこの特異な演劇祭に立ち会うことはできなくなってしまう。

2017第2部は3月はじめに行われ、場所はなんとバングラデシュの田舎町だった。twitterでの同行者募集に応じた京都カウパー団のげきまきまき(@makielastic)と二人で10日間、インドとバングラデシュを回ったようだ。この海外公演の様子は、二人のtweetから断片的にしかわからない。

今回の彼らのインド・バングラデシュ滞在中は、私はフランスにいたためもとより不可能だったのだが、できることならば随行してこの公演のレポートをしたかったものだ。高野が27年前にバングラデシュを訪ねたとき一晩だけ同宿した人だけが頼りという無謀なバングラ公演だったが、大きな成果が獲得されたようだ。このツアーが面白くなかったはずがないだろう。

竜‏ @yappata2 3月14日
用意したのは台本とケンガリと仮面と、岸田衿子「かばくんのふね」。絵本持ってったのは前回訪孟のイメージから路上パンソリみたいなことを想定してたんですがもしかして学校公演とかになるかもとも思ったので。なにしろ27年前にひと晩だけ同宿した人だけが頼りという雲をつかむようなハナシでして。

さて2017年第3部は、ここ数年、5月のはじめ頃に行われていた府中市是政にある豆茶房でこでの公演である。

武蔵関から西武多摩川線に乗り、その終点が是政駅だ。私はうっかり中央線の特快に乗ってしまい武蔵関を通過してしまった。立川から武蔵駅に戻っているうちに多摩川線の列車に乗り遅れ、開演予定時刻の13時に間に合わなかった。でこに着いたのは13時10分頃。開演を遅らせて私の到着を待ってもらったみたいで、まだ始まっていなかった。早くから来ていたお客さんに申し訳ない。でこは10畳ほどの広さしかない。観客の数は20名ほどだった。

13時15分頃に開演したが、喫茶店のドアは開け放たれたまま。入口付近に座っていた高野竜がドアの外を見ながら「大きな穴が開いている」とか話すと、でこの店内にいた女優(角智恵子であることがあとでわかる)がそれに応えて何か言う。

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この二人のやりとりに続きオープニング演目、高野竜のモノローグ劇の傑作、「詩とは何か」が始まった。この演目は毎年、現役の女子高生が演じる。高校生活になじめず、不登校の女子高生が町の高台から望遠鏡で駅前のロータリーの様子を眺める。そこには常連のナンパ師がいて、成功率の極めて低いナンパを日課のように行っていた。女子高生は、なぜかそのナンパ師のことが気になってしかたない。そのナンパ師が突然姿を見せなくなった。しばらくいないなと思っていると、再び彼は駅前に現れるようになった。そこで女子高生はあることに気づく。

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居場所を見つけられず、世界の隙間のようなところでひっそりと身を守り、世の中を観察する女子高生の心を大きく揺さぶる、ささやかではあるが劇的な事件が駅前のロータリーで起こる。その事件がもたらすささやかな奇跡に後押しされ、彼女は一歩新しい世界に押し出される。「詩とは何かを」を演じる女子高生女優は毎年変わる。今年この作品を演じたさやかはずっと遠くのほうを眺めているかのようだった。彼女のほほには静かに涙が一筋流れていた。でも感情が高ぶるようなことはない。彼女が観察し、経験した現実を、そのまま、すーっと受けとめるかのように、そして受けとめた現実をひとつひとつ丁寧に体のなかに刻み込む かのようにさやかは語った。

開け放たれた入口から聞こえる外の道路の音が、喫茶室なかの語りと呼応していた。通りすがりの近所のひとたちがいったい何をやっているのだろうと、喫茶店のなかを覗き込む。

「詩とは何か」を語り終えると、 さやかは、そのまま開け放たれたままの入口を通って外に出て行った。彼女の移動と入れ違いに戸川裕華の弾き語りがはじまる。

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戸川裕華は身長138cm、丸めがね、 おかっぱ黒髪の小学生少女のような見た目の歌い手だ。歌曲は多少単調だったが、思いを絞り出すような歌声とそのスタイルには独自性、存在の主張があった。「私はいま、ここにいる」と彼女は歌を通してずっと叫んでいるように思えた。

戸川裕華の弾き語りの後はおやつ時間。この軽食タイムも平原演劇祭には欠かせない要素だ。今回の軽食は、揚げラビオリと黒砂糖の塊。

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ラビオリの皮は春巻き、中味は、サラミとバングラデシュのナツメヤシ、あとクミンシードかクローヴパウダーの2種類の味つけとのこと。中味はあとで知った。辛かったり甘かったりの奇妙な味で、いったい何が入っているのだろうと思いながら食べた。黒砂糖の塊はかなり固く、錐を木槌で打ち込んで砕いた。素朴な甘みだが案外おいしい。バングラデシュのお土産として持ち帰ったそうだが、当然、空港では「一体これは何だ?」と何回か尋問されたそうだ。見た目がえたいが知れなくていかにもやばそうなので、検査官としては調べたくなるだろう。

おやつ時間のあとは町歩き朗読となった。詩人の暁方みせいが、宮沢賢治「小岩井牧場」(のおそらくみせいによるアレンジ版)を読みながら、豆茶房でこの周辺を歩き回る。酒井康志が小型のラジカセを頭の上にかかげ、みせいさんに続く。ラジカセからはパーカッションの音が流れる。それを20名ほどの観客がぞろぞろと追いかけるという「ブレーメンの音楽隊」のような町歩き朗読となった。

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暁方みせいは歩きながら朗読するのだが、ときおり何箇所かで立ち止まったり、座ったりして朗読を続けた。彼女の朗読の声は、町の風景のなかに溶け込んでしまいよく聞こえない。ラジカセから流れるパーカッションの音はぽこぽこ響く。奇妙な集団散歩者、朗読付きの出現に、通りすがりに出会った住人たちはぎょっとしていた。そりゃそうだろう。

暁方みせいの朗読を引き継いで、そのまま野外で、今度はこの3月に高校を卒業するひなたが地域の観光ガイドのような一人語りを始める。

これが平原演劇祭2017第3部「芝がするどく鳴ってゐる」の最後の演目、高野竜の新作戯曲「孤立が丘」だった。最初は観客を目の前に、ひなたは地域の地図の看板を指し示しながら歴史ガイドのように、このあたりの地誌についてマニアックな説明を始める。しばらくするとそれがチェーホフの「かもめ」の一場面の再現へと移行していく。そのとき、ひなたが話す後ろで寝ていた路上生活者がいきなり覆いをとって起き上がり、ひなたに絡み始めた。この路上生活者は仕込みで、さきほどまで豆茶房でこにいた角智恵子だった。この仕掛けには大笑い。こんなとこに路上生活者が寝ているなんて変だなと思っていたのだが。

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角智恵子は女優なのか、何者なのか。この堂々たるチンピラぶり、ヒッピー風のふてぶてしさ、ただ者ではないのだけれど、彼女のアイデンティティがよくわからない。角智恵子はひなたの演技にだめ出しをする。この後、野外から再び豆茶房でこの店内に場所がまた戻る。

二人の会話はうねうねと脱線をくりかえしながら、この付近にかつて流れていた水路とその痕跡についての蘊蓄、詩の朗読、演技論、俳優論、戯曲論、それからまた地誌的な話題へと連なっていく。土地の歴史の物語が文学、演劇と結びつき、この二つのトピックのあいだを二人の会話は自由に行き来していく。そして土地と物語、演劇論は文学的幻想の世界へと帰結していく。

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ひなたは最後に極度の緊張が続いたためか立てなくなってしまった。彼女を角智恵子が開け放たれたままだった入口から外へと担ぎ出す。出る間際に角智恵子から

「あ、これで終演です」

という言葉はあったものの、なんか中途半端な感じだ。終演後のあいさつのない。

今回の公演ではずっと裏方をやっていた中沢寒天が場をつなぐために話しはじめた。

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大学で地理学のゼミをとっているという彼女は、先ほどひなたと角智恵子の芝居のなかで言及されていた是政の川の歴史のはなしへの補足のような感じで、彼女が住む浦安の地理的状況について話し出す。その話は、その地形にまつわる歴史の話につながり、さらに浦安をかつて襲った大水害にかかわる物語の語りへと移行していく。この中沢寒天「場つなぎ」も演目の一部だったのだ。

後でわかったことだが彼女の語りは、ひなたと角智恵子が演じた「孤立が丘」の終幕部に相当し、中沢寒天は浦安出身ではあるが、地理学のゼミなど大学で取っていない。

このように平原演劇祭では現実と虚構が巧妙に混じり合い、リアルな世界が時間のかなたの過去の世界、幻想の物語の語りの世界へと、自在に行き来する。

16時過ぎに出演俳優の紹介があり、本当の終演。

たかが世界の終わり(2016)JUSTE LA FIN DU MONDE

gaga.ne.jp

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成功したゲイの劇作家ルイが、自分の死を告げるために、12年ぶりに実家に帰る。なぜ死ぬのか、なぜ12年間帰省することがなかったのかは説明されない。12年間、帰省することはなかったこのハンサムな劇作家は、家族の誕生日に数行のメッセージを添えた絵はがきを送ることで家族との接触をかろうじて保っていた。

実家にいるのは、彼の母親、兄夫婦、妹の4人。登場人物は主人公を含め家族の成員の5人だけだ。実家にいる人たちはそれぞれどこか壊れている感じがする。母親はスーパーハイテンションで舞い上がっている。妹は情緒不安定。兄はなぜかいつも不機嫌で、他の家族の言葉尻を捉えては神経を逆なでするような攻撃的な嫌みを言う。弟のルイにも憎悪をむき出しにするが、その憎悪の原因はわからない。兄の妻はルイに好意的ではあるが、なぜか彼に対してはずっとvousという丁寧語で話す。話し方は常におどおどしていて、コミュニケーション障害があるように見える。

突然12年ぶりにやってきたルイだけが、冷静で温厚でまともな人間に言える。しかし彼は自分の死を告げにやって来たというのに、それを結局、家族に伝えることができない。彼の告白を受け入れるような雰囲気がないのだ。家族間のグロテスクで異常なテンションのバリアで、彼の存在ははじき飛ばされてしまうかのようだ。彼は地獄となったこの家族には救世主となるような存在なのだが、家族はその救世主を受け入れる余裕がなくなっている。結局、彼は何をしに帰ってきたのかわからない。調和を失った殺伐とした家族の状況に何の影響ももたらさないまま、兄に追い返されてしまう。

今のフランス映画界を代表するような名優が揃って出演している。その演技のクオリティの高さは驚くべきものだ。マリオン・コティヤールが演じる人物のおどおどしたしゃべり、表情の不安定さを見て、すごいものだなと思う。他の俳優もみな素晴らしい。ヴァンサン・カッセルの切れ方とか。主人公をのぞいて皆、強烈な個性の狂った感じの人物ばかりなので、逆に演じやすいというのはあるかもしれないが。

物語としては、自分の死を家族にわざわざ告げにやってきたというゲイ劇作家、ルイのもったいぶりかた、気取り方が鼻についてイライラした。

音楽は使いたくなるような場面には、躊躇せずにふんだんに使われている。使用されているポピュラー音楽の歌詞は、その場面のパラフレーズとなっている。映像のほとんどは人物の顔のアップというのもこの映画の特徴だ。登場人物の視点と重なるショットが多い。主観的な視線だけで構成された映像とも言える。象徴的な映像・音楽・台詞を重ねることで、各人物の情念が濃厚に表現される。

海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~(2016) FUOCOAMMARE

www.bitters.co.jp

  • 上映時間:114分
  • 製作国:イタリア/フランス
  • 初公開年月:2017/02/11
  • 監督: ジャンフランコ・ロージ 
  • 撮影: ジャンフランコ・ロージ 
  • 編集: ヤーコポ・クアドリ
  • 映画館:Bunkamuraル・シネマ
  • 評価:☆☆☆☆

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シチリアの南、アフリカの沖合にある地中海の島を撮影したドキュメンタリー映画だが、澄んだ青色の海と空の映像はほとんど出てこない。薄曇りの灰色の空とその色を映し出す海、そして夜の風景。
この島にはこの20年間に40万人の難民が上陸したという。

この島に住む10歳ぐらいの少年の生活とこの島に漂着する難民たちの様子が並列的に映し出される。この二つの島の日常には直接的な接点はない。この二つの日常を繫ぐのは、島にただ一人の医師と島のローカルラジオ局で流れるニュースだ。

難民船は島のそばにあるリビアもしくはチュニジアから出航しているのだと思う。しかしその船に乗っている難民たちの出身国は、私が思っていた以上に多様だった。コートジボワール、ナイジェリア、スーダンソマリアエリトリアなどサハラ砂漠の向こう側の地域の人たちが多いのだ。中東のシリアからの難民もいた。彼らは何千キロもの陸路を経て、地中海沿岸の港町に到達し、そこで難民船に乗って地中海を横断しようとする。しかし映画で映し出されたその難民船の環境のひどさは、私の想像を超えるものだった。まさに命を賭けた脱出であり、それほどのリスクを冒してでも逃げ出したいようなひどい現実がアフリカ、中近東の彼らにはあったということだ。

最初のうちは少年の日常風景のスケッチが延々続くことの意味が分からなかったし、ナレーションもBGMとしての音楽もないので退屈し、眠くなってしまった。しかしこの対比の意味が見えてきて、少年の存在が何を象徴するのかがわかってくると、はっと目が覚め、引き込まれていく。

沈黙 ─サイレンス─(2016)SILENCE

chinmoku.jp

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2時間40分を超える長尺の作品だったが。音楽をほとんど使わないストイックな演出が、作品の宗教的テーマを厳粛に浮かび上がらせる。日本の風俗描写には大きな違和感は感じなかった。ただポルトガル人司祭が英語を話すことに対する違和感はさいごまで私は消えることはなかった。とりわけ冒頭の中国で司祭二人がキチジローに会う場面で、中国人も含め、全員が英語で会話していることでひっかかる。複数の言語が劇中で使われているため、ベースを英語にしても整合性を取るのが難しい場面が出てくる。

リアリズム史劇なので、英語使用のご都合主義が機能していない場面が出てくると私は興ざめしてしまう。劇中の英語は「ポルトガル語」にあたると理解し、脳内言語変換して見られるようになったのは、だいぶたってからだった。この英語をポルトガル語をみなすという映画内ルールがうまくいかない箇所で記憶に残っているのは、切支丹農民が「paraisoに行けるんですよね?」と英語で司祭に尋ねると、司祭が「paraiso? おおparadiseか!」と返事したやりとりです。ポルトガル人なんだから「パライソ」でわかって欲しい。英語に直してようやく理解するとは。英語はこの映画ではポルトガル語なんだと考えても、映画のなかの江戸時代の農民、武士たちは、いくらなんでも外国語コミュニケショーン能力が高すぎるように思える。

映画のなかでは司祭はほとんど日本語を話さないのだが、実際の布教ではむしろ司祭や修道士たちが日本語を積極的に学び、日本人のほうはポルトガル語スペイン語ができる人はそんなにいなかったのではないだろうか? そうでないとあれほど信者を獲得できなかったはずだ。

言葉のことが気になってしまったが、遠藤原作を忠実になぞった司祭の葛藤、キチジローの裏切りを軸とするドラマはやはり面白い。キリスト教側の論理だけではなく、日本の支配体制側の論理も、説得力あるものとして示しているところがこの映画のいいところだ。だからこそ司祭たちの迷いも深刻になっていく。

もう一つ、この映画を見て気づいたことは、踏み絵を拒否するというのは神に対する崇敬の表明だけでなく、権力の圧倒的な暴力に対する人間の尊厳を賭けた憤りの表現、決死の抵抗だったということだ。命を賭けての行為なので、踏み絵にはものすごく大きな勇気と決意が必要となる。それほどまでに当時の信者たちは追い詰められていたのだ。