閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第三日目(1/27)

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パスカルは二日目のワークショップの最後に、次のような奇妙な指示を出した。「最終日の三日目は、あなたたちに今日行った都市のリサーチの報告をしてもらうのですが、もちろんどんな形式での報告でもかまいません。ただ一つお願いしたいのは、一つの報告が終わったら、それじゃあ次の報告、それから次の報告、という具合に次々と区切りをつけて報告が行われるというかたちではやって欲しくないのです。各発表はあるがまま、なすがままの経過の中で、自然でゆるやかな連鎖によって行って下さい。一つの発表をそれに必要と思われる時間を十分に使って行い、それをしっかりとみなが受けとめてから、連鎖的に次の発表が始まるような感じで。発表は数秒でも数十分でも必要な時間、使って下さい」
私は質問した。
「それでは全員が成果を発表できないかもしれませんね?」
この質問に対してパスカルは、「それはしかたない。C’est la vie(そういうもんだよ)だよ」とそれがごく当然のことであるかのようにさらっと答えたのだった。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第二日目(1/26)

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パスカル・ランベールによる「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」の第二日目。

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血液型A型乙女座六白金星の私は授業をやるにあたっては、一見いい加減にやっているように見えながら、実は事前にきっちり計画をたてて、やるべきことをリスト化していないと不安なたちだ。毎日の仕事とはいえ、数十人の人間と対峙し、60分なり90分なりの時間を成立させるのは、かなり恐いことであり、とりわけ人間関係が構築されていない新学期の授業はいまだに緊張する。毎回の授業でどんなプログラムで構成するのかは決めているのだが、新学期の最初の授業ではとりわけ細かくやることを決めている。
平田オリザのワークショップを受けたときは、それゆえ、その見事に構造化されたプログラムの精緻さに感動したのだ。しっかり構築されているがゆえに平田のプログラムはあらゆる対象に対して応用可能なものになっている。いったいあのプログラムに到達するのにどれほどの時間を要したのだろうと考えてしまう。

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今回受けているパスカルのワークショップは、方法・発想的に平田のプログラムの対極と言えるものだ。ワークショップのコンセプトは、なるほどよく練られていて、魅力的だ。しかしその具体的方法は、徹底的に即興的・反射的であり、パスカルとワークショップ受講者のやりとりのなかで、脱線し、発展していく。これは驚くべきものだ。教育プログラムなどで、「受講者の自主性を引き出し、自由な発想、発言を歓迎する」と称するものはあまたあるが、その大半は実際には受講者に自分の発言を強要し、さらにその発言を講師の考える方向・結論へ意識的・無意識的に誘導するものでしかない。最終的には終わりの時間までに、予定調和的なものへと行き着くことで完結となる。

パスカルのすごいところは、最終的に帳尻を合わせるということが最初から頭にないということだ。彼は参加者から言葉を引き出そうとする。彼のエネルギーと明るさ、そしてフランス語なので通訳を介してのコミュニケーションとなるということがおそらく作用して(平野さんの通訳もかなり貢献している)、参加者はついうっかり余計なことを話してしまう。その余計なことまで話すことが許容され、むしろ推奨される完全に開かれた自由な時間が、このワークショップでは成立しているのだ。もちろん時間は有限だ。14時に始まり、18時には解散しなくてはならない。普通なら終了時間までには何とか帳尻合わせをしようという意識が働くものであり、そこで「自由さ」に欺瞞が生まれる。時間内に何とかまとめて、結論めいたものを出そうとする、求めるのが普通の人だ。しかしパスカルはそうではない。

昨日の第一日目は、25人の参加者のうち、15人の自己紹介が終わったところで時間切れとなった。

「それじゃあ、残りは明日、自己紹介ね」
三日間12時間のワークショップの一日目が、15人の自己紹介だけで終わっただけであることを、パスカルは全く気にしていない。『都市をみる/リアルを記述する』というワークショップのお題には全く入ることができなかった。でも濃厚な自己紹介を通じて、他者を知り、これからどういうことがこのメンバーで起きうるかについて想像できるような場を持てたことで、それは十分な収穫ではないか、というのがパスカルの考え方だ。

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そして今日の二日目の自己紹介。10人自己紹介をしていない人間が残っていたはずだが、今日来ていたのはそのうち8人だった。2人は昨日の様子にもしかすると呆れてしまい、参加を取りやめたのかも知れない。さすがに今日は『都市をみる/リアルを記述する』のリサーチの時間を取れないとまずいと思ったのか、自己紹介は昨日よりはあっさり目で40分ほどで終わった。もしかするとパスカルもちょっと疲れていたのかもしれない。自己紹介が終わると、

「それじゃあ、これからみんな建物外に出て、iphone使って写真撮るなり、音を撮るなり、明日の発表のための取材をしてください。17時半に戻ってきてね」

と参加者は建物外、半径500メートルの領域に放牧されてしまう。

発表と言っても、具体的に何をどうやればいいのか。それは発表者に完全に委ねられている。ここまで徹底的に自由にやってこそ、自由というのは意味を持つのだ。参加者のなかには演出家や俳優、ダンサーもいる。彼らはこれまで受け取った言葉をヒントに、プロフェッショナルとしての各人の矜恃を持って、彼らが見出した都市の断片について何らかの表現を提示しなくてはならないだろう。「具体的に何が求められているのかわからない」という言い訳は彼らには許されていない。もちろんアマチュアはアマチュアで、この自由さを引き受けたうえで、ありあわせの材料で何とか表現を作っていかなければならない。

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私は町に出た時点ではほぼノーアイディアだった。でもどんなものであってもでっち上げなくてはならない。とあるコンセプトに基づき、町の数カ所で写真を撮った。それを構成して表現とすることにしたが、うまくいくかどうか。いや、うまくいくかどうかはどうでもいいのだ。とにかくあり合わせの材料で自分ができることを提示するしかない。

17時半に元の会場に戻る。そこで簡単に明日の確認。明日は各自のリサーチの成果の発表となる。どんなかたちの発表になるのかは各自に委ねられている。パスカルはここで奇妙な指示を出した。

「あの〜、発表なんだけど、この人が終わったから、次この人みたいに、次々とこなしていくみたいには絶対やって欲しくないんだ。ある人の作品のプレゼンが終わったら、それを皆が受けとめて味わいつくしたあとで、その自然な流れで次の発表が連鎖的に行われるみたいな感じでやって欲しい。一つのプレゼンが数秒だったり、あるいは40分だったりしてもかまわない。それぞれの表現が必要とする時間を十分使ってやるんだ。時間を決めて、パンパンパンパンみたいな感じではやらないで」

参加者は20名以上いる。全員が発表するとなると、ひとり10分でも200分、3時間20分必要だ。準備を入れると4時間超えるだろう。しかしこんな調子では、平均10分で終わるなんてことはまず無理だろう。私はこの期に及んで、「でもこれでは明日、全員が発表できないじゃないか」とやきもきし、質問した。

「それじゃあ、明日、全員がその成果を発表できないかもしれませんね?」

するとパスカルは、

「うん、そうだね。でもC’est la vie(それが人生)ってやつだ。しかたないよ。発表できなくてもこうしてコミュニケーションを取れて、都市を見つめる機会を持てたんだからいいじゃん。また次の機会もあると思うし」
と答えたのであった。このワークショップで帳尻合わせを気にしていた自分がバカだった。私も「学生の自主性を引き出す」というのであれば、ここまで自由で開放的な授業をしてみたいものだ。

明日、どんな発表が見られるのか、本当に楽しみにしている。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第一日目(1/25)

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【第一日目 1/27(水)】

1/26から28の三日間にわたってSHIBAURA HOUSEで行われたフランス人劇作家・演出家のパスカル・ランベールのワークショップに参加した。

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「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」という惹句が魅力的で、その下にある説明もかっこいいのだけれど、具体的に何が行われるのかよくわからない。

ワークショップ初日の今日は、ウェブページの文章とほぼ同じ内容が口頭で説明された後は、何と3時間半ずっと参加者の自己紹介が続き、それで終わってしまった。

 

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無料のワークショップでなかなか面白そうなのだけれど、日時的にどんな人が来るのだろうと思っていた。今日行ってみると学生、俳優、演出家、観劇人など世の流れからは外れたところで生きていそうな面白そうな人たちが集まっていた。知り合いも何名かいた。20名定員となっているが、50人の参加申込みがあったそうで、結局、今日集まったのは25名だった。今日は自己紹介(全員終わらなかった。10人ぐらいやっていない人がいる。明日やるらしい)、明日は自己紹介の残りを終えたあと、会場のSHIBAURA HOUSE(5階は硝子張りの開放的な作りでかっこいいビルだ)の半径500メートルぐらいを参加者がそれぞれ取材。明後日は取材成果を再構成して発表というスケジュールとのこと。しかしどのように何を取材するかは具体的な指示がなく、成果の発表についてもしかりという超フリーな形態なので、明日・明後日はどうなるかはわからない。

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「ワークショップはこれまで時間がなくてほとんどやったことがない。うまくいくかどうかはよくわからない」。「自分の自由を他の人たちにも共有してもらいたい」と講師のパスカル自身が言っていたりする。とにかく町に出て歩いたり、佇んだりしながら、リアルを観察して、リアルをそれぞれが把握し、そのリアルの断片を再構成して作品として伝える、ということらしい。「見る、観察する、記録する、再構成する」。でもどうやって? それは各自が考えるらしい。

きっちりと構築された平田オリザのワークショップとは対極にあるいきあたりばったりの即興の連続のワークショップだ。4時間の時間をどう使うかとなると、普通ならプログラムを事前に組み立てておくものだと思うのだが。

「今日は時間がたっぷりあるから、一人一人じっくり自己紹介していこう!」ということで、最初の人の自己紹介で40分近い時間を消化。自己紹介の内容にパスカルがいちいち突っ込みをいれる。最初の青年はミニマル音楽を作っていると言ったら、「じゃ、その場でどんな音楽なのかデモンストレーションしてみて」と無茶振りされているし。さらに「あ、朝のおばあさんとの会話、それをできるだけ忠実にここで他の人に演じさせてみて」なんてことを要求されたり。えらいと思ったのは、この行き当たりばったりのパスカルの無茶振りを、振られた人がとにかくやってみせたことだ。「えー、無理ですよ」と拒否したりしない。

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こんな奔放な突っ込みに誘導されたのか、参加者の自己紹介はほぼ初対面の人たちに対してかなりディープで深い内容になっていった。パスカルの行き当たりばったりの勢いに、思わず普通は人には自己紹介ではわざわざ言わないようなことを語るはめになっていくというか。こんな調子で自己紹介が進んで行ったので、25人のうち今日、自己紹介ができたのは15人だけで、あとの10人は翌日に積み残しである。何と言うことだ!でもパスカルは「これでいいのだ」と開き直った感じであった。

私の自己紹介はまだすんでいない。とにかくこの自由さに乗っかって、あとの二日、参加し、その様子を記録しておきたい。

静かなる叫び

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http://aoyama-theater.jp/feature/mitaiken2017

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フェミニズムを憎悪する男が、冬のある日、理工科学校の女子学生を銃で次々と殺戮していく様子を緊張感に満ちたモノクロの画面で再現する。この事件に遭遇した人間が味わった恐怖と混乱、彼らに残されたトラウマを淡々と描く。


犯人の内面は説明されない。彼がただフェミニズムを激しく憎んでいて、それが大量殺戮の動機となったことだけが提示される。3人の視点からこの事件が再現される。一人は犯人、もう一人は生き残った女子学生、3人目はこの女子学生の友人の男子学生。犯人は最後に自殺する。男子学生は自分がこの惨劇の現場にいながら何もできなかったことに大きなショックを受ける。彼はただ動き回り、血まみれの犠牲者を目にする。事件後、この青年はクリスマス前に田舎で一人で暮らす母を訪ねた後、雪の平原のなかに自動車を停め、排気ガスで自殺する。女子学生は希望通り航空会社でインターンとして働きはじめた。しかし常にあの事件の悪夢に苦しめられている。彼女は妊娠した。その事実を不安とともに受けとめるが、自分のお腹のなかの生命に祈るように希望を託そうとする。

日常のなかに唐突に圧倒的な暴力が入り込んだときの人間の無力さ、弱さ、状況にただ戸惑い、恐れる様子が、冷徹に映し出される。そしてこうした暴力が、その被害者に与えるダメージの強烈さも。こうした説明不可能な破壊衝動は、その不条理性ゆえに人間を震撼させる。それはわれわれ自身が心のなかに抱え込んでいる闇の深さを象徴しているかのように感じさせる。

ヴィルヌーヴはこのセンセーショナルな事件をできるだけ理知的に客観的に提示しようとした。彼の硬質で冷静な映画美学がこの作品に荘厳な緊張感を与えている。切り取られたショットもシャープだが、音楽も素晴らしい。

 

平原演劇祭2017第一部『未成年安愚楽鍋』

構成:高野竜

出演:中沢寒天、耳見みみ、杏奈

会場:西日暮里じょじょ家

お品書き:

  1. 序(三池崇史『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』より)
  2. 菅原孝標女更級日記』上総〜相模
  3. 諸工人の侠言(しょくにんのちうッぱら)(仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  4. 人車の引力語(ひきごと)仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  5. 讃岐の国の女冥土に行きて、其の魂還りて他の身に付きたる語(『今昔物語』より)
  6. 落語家の楽屋堕(はなしかのがくやおち)仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  7. のっそりジュヴェーヌ(幸田露伴五重塔』より)
  8. 飛天夜夜叉(幸田露伴五重塔』より?)
  9. 菅原孝標女更級日記駿河

 

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埼玉県宮代町在住の劇詩人・演出家の高野竜がプロデュースする平原演劇祭2017第一部に行ってきた。場所は西日暮里駅から歩いて数分のところにあるじょじょ家というカフェ(おそらく)。店内のテーブルや椅子を外に出して、公演会場としていたのだが、それでも内部は八畳間ぐらいの広さしかない。

17時開演なので、その20分ほど前に会場に到着したのだが、既に人で埋まっていて通常の椅子席はすべて塞がっていた。最終的にはこの狭い場所に出演者3名を含め20名ほどの人間がひしめきあう状況になった。

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今回の演劇祭では「安愚楽鍋」という演目にちなんでスキヤキ付きだ。実際供されたのは「スキヤキ」と呼ぶべきかどうか微妙だが、肉の入った鍋料理がこの狭い会場内で調理され、主宰の高野竜がふるまった。しかしこの狭い会場に人がぎっしりの状態なので、なかなか肉鍋が観客に行き渡らない。狭い中、身体を寄せ合い、観客は肉鍋を食べる。食べ物も平原演劇祭の演目のひとつなので、食べないわけにはいかない。肉鍋はあっさり醤油味で、牛のすじ肉とネギ、豆腐などが入っていた。いつもの平原演劇祭以上のぐだぐだの状況のなか、十分押しでとにかく公演は始まった。

公演内容は未成年10代の少女三人によるリーディング公演だ。狭い場所に人が密集しているので客と演者の距離は数十センチしかない。演者は観客に至近距離で取り囲まれる中でリーディングを行わなくてならない。『未成年安愚楽鍋』という公演タイトルだが、会場では読まれたのは『安愚楽鍋』だけではなかった。上に記しているお品書きにあるテクストが読まれた、というよりは上演されたのだが、この「お品書き」、即ち朗読テクストのリストは観客全員には配付されなかった。これは不親切だ。配付を忘れていたのか、それとも最初から配付する気がなかったのか不明だが。

公演時間は約70分。70分のあいだ、三人の十代女優が「お品書き」テクストを上演していくが、私も含め、観客のなかで彼女たちが語る日本語の意味をちゃんと追えた人はいなかったのではないだろうか。まずオープニングの『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』の冒頭部再現(スマートフォンでの映像とシンクロさせて上演された)はすべて英語だ。もちろん字幕なし。それから平安時代のテクストである「更級日記」(読まれているときは作品名は私にはわからなかった)の抜粋、その後ようやく『安愚楽鍋』から「諸工人の侠言」(これも後で「お品書き」を見てわかった)。「諸工人の侠言」については、ウェブ上に転写している人がいた。

 

「エエ、コウ、松や聞いてくれ、あの勘次の野郎ほど附合つきあいのねえまぬけは、西東にしひがしの神田三界かんださんがえにゃアおらアあるめえと思うぜ。まアこういう訳だ聞いてくりや、夕辺ゆうべ仕事のことで八右衛門さんの処とこへ面ア出すと、ちょうど棟梁とうりうが来ていて、酒が始まっているンだろう、手めえの前めえだけれど、おらだって世話焼きだとか犬いんのくそだとか言われてるからだだから、酒を見かけちゃア逃げられねえだろう。しかたがねえからつッぱえりこんで一杯いっぺえやッつけたが、なんぼさきが棟梁とうりう大工でえくでもご馳走にばかりなッちゃア外聞げえぶんがみっともねえから、盃を受けておいてヨ、小便をたれに行く振りで表へ飛び出して横町の魚政うおまさの処とけへ往いってきはだの刺身をまず一分いちぶとあつらえこんで、内田へはしけて一升とおごったは、おらア知らん顔の半兵えで帰けえってくると、間もなく酒と肴がきた処とツから、棟梁とうりうも浮かれ出して、新道しんみちの小美代を呼んで来いとかなんとか言ったからたまらねえ。藝妓ねこが一枚いちめえとびこむと八右衛門がしらまで浮気うわきになってがなりだすとノ、勘次の野郎がいい芸人の振りよをしやアがって、二上にあがりだとか湯あがりだとか蛸坊主が湯気ゆげにあがったような面つらアしやアがって、狼の遠吠えでさんざツぱら騒ぎちらしゃアがって、その挙句が人力車ちょんきなで小塚原こつへ押しだそうとなると勘次のしみツたれめえ、おさらばずいとくじを決めたもんだから、棟梁も八さんもそれなりになってしまッたが、エエ、コウ、おもしろくもねえ細工せえくびんばう人ひとだからだ、あの野郎のように銭金ぜにかねを惜しみやアがって仲間附合を外すしみったれた了簡なら職人をさらべやめて人力じんりきの車力しゃりきにでもなりゃアがればいいひとをつけこちとらア四十づらアさげて色気もそツけもねえけれど、附合とくりゃア夜が夜中よなか、槍がふろうとも唐天からてんぢよくからあめりかのばったん国までも行くつもりだア、あいつらとは職人のたてが違わあ。口はばツてえ言い分だが。うちにやア七十になるばばアにかかアと孩児がきで以上七人ぐらしで、壱升の米は一日いちんちねえし、夜があけてからすがガアと啼きやア二分にぶの札がなけりゃアびんばうゆるぎもできねえからだで、年中十の字の尻けつを右へぴん曲るが半商売だけれど、南京米なんきんめえとかての飯は喰ツたことがねえ男だ。あいつらのようにかかアに人仕事をさせやアがって、うぬは仕事から帰けえツて来ると並木へ出て休みにでっちておいた塵取ごみとりなんぞをならべて売りやアがるのだア。すツぽんにお月さま、下駄に焼き味噌ほど違うお職人さまだア、ぐずぐずしやアがりやア素脳天すのうてんを叩き割って西瓜の立売にくれてやらア。はばかりながらほんのこったが矢でも鉄砲でも持って来い、恐れるのじゃアねえわえ、ト言い掛かりやア言いたくなるだろう、のウ松、てめえにしたところがそうじゃアねえか。オイオイ、あンねえ《女》熱くしてモウ二合ふたつそして生肉なまも替りだア、早くしろウ、エエ。

江戸末期・明治初期の戯作文の語り文体、こんなものを早口で一気に読み上げられてその意味を追える人は、平原演劇祭という特異な演劇公演の観客のなかにもそうはいないはずだ。そもそもこれを快速で語っている女優も意味を追いながら読んでいるとは思えない。演者である女優三人の前には、小型の電気グリルが見台のごとく置かれていて、そこで肉を焼きながら彼女たちは語っていた。

お品書きを後で見てわかったことだが、仮名垣魯文安愚楽鍋』からの抜粋が3つあるが、これ以外のテクストが『安愚楽鍋』とどういう繋がりを持っているのか、「序」の「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」を除いて私にはわからない。

「諸工人の侠言」、「人車の引力語」と二つ『安愚楽鍋』からのテクストが演じられた(と言うべきだろう)あと、『今昔物語』から「讃岐の国…」という幻想譚(鬼が出てくる幻想譚であることはかろうじてわかった)が奇妙な仮面を被って朗読される。その後に『安愚楽鍋』から「落語家の楽屋堕」。つぎの『のっそりジュヴェーヌ』は、エッフェル塔建設に己の職人としての全存在をかける大工の話で、「あれ?どっかで聞いたような話だなあ」と思っていたら、幸田露伴五重塔』のパロディだった。私は前進座の公演で『五重塔』を見ていたので、聞き覚えがあったのだ。でもなぜ『五重塔』?と思う。最後は『更級日記』で終わる。

一月のこの時期に『安愚楽鍋』を未成年女優に朗読させ、観客に「すきやき」(かっこ付きだが)をふるまうというアイディアには、何らかの理由があるに違いない。そして一見、つながりがみえないテクストの構成にも意味があるのだろう。

観客にとって意味が取れないテクストを延々と聞かせるために、観客に肉鍋を食わせたりする他、時折楽器などで効果音を入れたり、三人娘に合唱させたり、食べさせたり、飲ませたりといったいくつかの緩やかな趣向はあった。

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こんな窮屈な場所での意味不明のパフォーマンスが公演として成立するのか、と問いたくなる人もいるかもしれないが(私自身が、自分でも問うていたのだが)、これがちゃんと成立している。もちろんいわゆる演劇公演とは異なるありかたで、こうした時空の共有がパフォーマンスを軸に成立していたのだ。

いったいわれわれ観客を何を聞き、何を見ていたのか。意味不明だが確かに日本語ではある言葉の音楽的な連なりを、その意味を追うことをあきらめたままぼんやりと聞き、さらにぐつぐつと鍋が煮え立つ音を聞き、そして時折、電車の通過音を聞いた。

高野竜の平原演劇祭は、様々な趣向でその場にいる者を強引に内輪として取り込み、彼らをまとめて別の時空へ連れて行ってしまう。

今日の公演で一番印象に残ったのは、最初の肉鍋で出てきたすじ肉の旨みだった。一応の公演終了後、再び鍋に追加された野菜や肉が観客にふるまわれた。牛肉はすじ肉だけ。あとは豚やら鴨やら。こんな窮屈ところで、立ったまま、知らない人と飯を食うなんて落ち着かないなあと私は思ってしまうのだが、それでもなぜか食べてしまう。鍋はすぐに空っぽになっていた。

渡辺源四郎商店『コーラないんですけど』

渡辺源四郎商店第26回公演 『コーラないんですけど』

  • 作・演出:工藤千夏
  • 出演:三上晴佳、工藤良平、音喜多咲子、<声の出演>宮越昭司、各務立基
  • 音響:藤平美保子
  • 照明:中島俊嗣
  • 舞台美術・宣伝美術イラスト:山下昇平
  • 舞台監督:中西隆雄
  • 宣伝美術:工藤規雄、渡辺佳奈子
  • 音響操作:飯嶋智
  • 監修:畑澤聖悟
  • プロデュース:佐藤誠
  • 制作:秋庭里美、佐藤宏之、夏井澪菜、音喜多咲子、木村知子
  • 劇場:こまばアゴラ劇場
  • 評価:☆☆☆☆

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2017年の初芝居はこまばアゴラ劇場で渡辺源四郎商店『コーラないんですけど』。

妻と子供二人(高1女子、小5男子)と一緒に見に行った。家族で演劇を見に行くのは前がいつだったか思い出せないほど久しぶりである。もしかすると初めてかもしれない。

作・演出は工藤千夏。ちらしの絵の雰囲気、タイトル、そして年末・正月の公演なので何となく脳天気なおめでたい内容の芝居を予想していたのだけれど、シリアスで時事的・社会的な主題を扱った作品だった。チラシの文面を読むと「師走の忙しさも、元日の華やぎのかけらもない芝居である」とちゃんと書いてある。

今の世相に人びとがもやもやと感じている不安感を演劇化した作品だった。といっても重苦しい雰囲気の作品ではない。工藤千夏作・演出で、しかもなべげん所属のあの俳優を使うとなると、たとえ生真面目なテーマででも、ほんわかしたやわらかい雰囲気のパステル・カラーの芝居になってしまう。

母子関係、すなわち家族問題と戦争という二つの問題が扱われている。「コーラないんですけど」という日常的な言葉が、そのまま戦争と繋がってしまうような状況を、引きこもりの少年と彼を溺愛し、甘やかす母の二人のやりとりを核に描いた作品だった。

この共依存のこの母子の家庭は一般社会から孤立しているように見える。家庭両親の離婚の原因、父親が今、何をしているのかについてはまったく語られない。母の過剰な愛情と期待を浴びて育った少年は、その過剰さに押しつぶされてしまい小学校高学年の頃からゲーム三昧の引きこもり生活を送っていた。劇中では彼の幼い頃から、その小学校時代、思春期、さらに彼が成人し、民間軍事支援機関に入り親元を離れるまでが描き出される。シーケンスごとの年代が前後していたり、その並び方に飛躍があったりする上、母親と息子の役柄も年代によって同じ俳優が入れ替わって演じるので、最初のうちは孤立したエピソードが並置されているように思える。

劇が進行するに従って、二人の関係性やシーケンスの繋がりが明確になり、現代の日本ではいたるところにありそうな母子の閉鎖的な共依存関係とその生活の不安・破綻が、遠く離れた紛争の地の問題とつながりうる現実のすがたが浮かび上がってくる。

中東、アフリカなどの地域紛争と日本の現実が繋がっているというような感覚に、私がリアリティを感じるようになったのはいつ頃からだろう? 私の場合、それはごく最近のことだ。サラ・ケインが『blasted』でユーゴ紛争の凄まじい暴力とイングランド地方都市のモーテルの一室とを直結させた場面では、作品そのものの迫力には魅了されたけれど、私は日本の現実と戦争状態にある外国の状況が直結しうるものだというイメージを持っていなかった。

ケベックのムワワッドの戯曲に基づくヴィルヌーヴの作品、『灼熱の魂』を見て、その後、ケベックに行き、その移民社会であるカナダでは『灼熱の魂』のようなドラマが神話的・象徴的レベルではなく、リアルな物語として説得力を持ちうることを知った。ムワワッドの作品を通じて、私は中東紛争とフランス、ケベックのつながりにはじめて興味を持ち、幾分かの知識を得た。しかしそれは依然まだ遠い世界の、私の現実とは関係ない世界の出来事だった。その後、ニースに行き、そこでのフランス語教員研修で中・東欧、旧ソ連、中東、アフリカの先生方と知り合い、紛争地域の問題は私にとって少し身近に感じられるようになった。日本での安倍政権のもとでの憲法改正の動き、そして安保法案の決議、さらにフランスなどヨーロッパで頻発する中東勢力によるテロリズムにより、中東問題には無関心でいられなくなっている。

しかしそれでも今日、この作品を見るまで、自分の子供が戦場に行く可能性についてはほとんど考えていなかったことに気づいた。劇中での民間軍事援助組織は架空の組織ではあるが、実際に閉塞感に満ちた現実から脱出しようと、自衛隊や傭兵組織への加入を目指す若者はいるだろう。制度として整備されれば、かなり大量の若者がそうした組織に流れる可能性がないとは言えない。

どんな芝居なのかまったく予想せずに、何となく家族四人親子でこの芝居を見ることになったのだけれど、内容的に芝居の中の世界を自分のリアルな世界と重ねて考えずにはいられない。
主題の扱い方は、正面から社会派の鋭い切り口でというのではなく、親子の共依存関係を軸にあえて柔らかくぼんやりと映し出すという方法が取られていた。母子役は時折、役柄を入替ながら、同じ役者が演じる。この母子の家庭を訪問する人間、母がコーラを探しに行くコンビニの店主は、また別の役者二人が複数役で演じていた。母子については衣装を変えるわけでもなく、ほとんどシームレスに役柄が交代するのだけれど、その転換は実に鮮やかで説得力があった。この母子関係にゆさぶりをかける外部の人間を演じた二人の役者もよかった。四人ともカメレオンのように各シーケンスで要求される役柄へと変化していく。俳優はそれぞれ愛嬌があって、そのユーモラスな変容ぶりを楽しむ作品でもあった。

偶然そうなったのだが、親子四人でこの作品を見ることができたのは幸運だった。

 

親密さ(2012年)

hamaguchi.fictive.jp

  • 製作:ENBUゼミナール
  • 監督・脚本:濱口竜介
  • 撮影:北川喜雄
  • 編集:鈴木宏
  • 整音:黄永昌
  • 助監督:佐々木亮
  • 制作:工藤渉
  • 劇中歌:岡本英之
  • 出演:平野鈴、佐藤亮、伊藤綾子、田山幹雄
  • 時間:255分
  • 映画館:ポレポレ東中野
  • 評価:☆☆☆☆☆

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第一部がとある小劇場劇団の公演の制作過程を描く群像劇だ。中心となる人物は演出家の女性と脚本家の男。この二人は同棲している。第二部は第一部で制作されていた作品の上演がそのまま省略なしで提示される劇中劇である。最後に10分ほどごく短いエピローグが添えられ、劇中劇の外枠がまた提示される。合計で4時間を超える大作だが、その構成はいびつで大胆だ。

これだけの長編作品だが、そこで映し出されているのは若者だけで構成されているとある劇団の小さな日常だ。その日常の様子を実に丁寧に繊細に再現している。

登場人物はみなとても生真面目に自分たちの生活を引き受けようとしている。これは劇中劇の『親密さ』の登場人物も同様だ。外枠の劇団員たちと現実と第二部で彼らが演じる劇中劇の人物像がシンクロし、第二部は演劇公演という枠組みが明示されているにもかかわらず、そこでのやりとりは明らかに外枠のリアリティを反映したものになっている。彼らは演劇による再現というやりかたで、自分たちの姿や生活をさらに深く見つめたのだ。

劇中劇の『親密さ』には、要領が良く、何でもそつなくこなす、頭のいい青年が一人登場する。いかにも現代の若者の代表といった感じの人物だ。しかし彼以外の人物はことごとく不器用で、自分に正直にしか生きることができない若者たちだ。彼らは如才なく周りに合わせて、何となく生きていくことがむしろつらい。この後者のような若者たちも依然多数、この世の中にはいる。しかし現実の世界の彼らの多くは、その己の不器用さをつきつめてまじめに考えるすべを知らない。

濱口竜介の『親密さ』はこの世に実はまだたくさんいるはずの不器用な人間、人を傷つけ、人に傷つけられることのなかで苦しみながら生きていくしかないような人間へのはげましとなぐさめの歌だ。

そしてそつなくゆうゆうと生きているような人間でさえも、心のなかには何らかの鬱屈を抱えていないわけではない。そうしたままならないものと向き合うためにはどうすればいいのだろうか、こうしたことを一緒に考えてくれるような作品なのだ。

私たちは誰もが文学、芸術を必要とするような時間があるのだ。

フィッシュマンの涙(2015)

fishman-movie.jp

 

  • 上映時間 92分
  • 製作国 韓国
  • 初公開年月 2016/12/17
  • ジャンル ドラマ/コメディ/ファンタジー
  • 監督: クォン・オグァン 
  • 製作総指揮: チョン・テソン、イ・チャンドン 
  • 脚本: クォン・オグァン 
  • 撮影: キム・テス 
  • 音楽: チョン・ヒョンス 
  • 出演: イ・グァンス、イ・チョニ、パク・ボヨン
  • 映画館:シネマート新宿
  • 評価:☆☆☆★

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シネマ—ト新宿でポーランド映画祭に通っていたときに、予告篇で流れていて面白そうだったので見に行った。娘も見たいと言っていたので一緒に見に行った。

新薬臨床実験の副作用で魚人間になってしまったフリーターの若い男の話。カフカの『変身』の現代韓国版バリエーションとも言えるような風刺劇だった。ただ喜劇的な要素は薄い。フィッシュマンは迷走する現代韓国社会のなかで翻弄される韓国人の若者の象徴のような存在だ。
フィッシュマンは映画のなかであまり語らない。彼は寡黙で自己主張をしない。自分をとりまく動きに受動的にいやおうなく流されてしまう存在だ。ぎょろ目の魚頭の彼は、その表情で自分の感情を伝えることもできない。それが何ともいえずもの悲しい。

フィッシュマンを取材するテレビ局正規雇用を目指す男性の視点から、フィッシュマンの騒動を通して、韓国社会が抱える問題が浮かび上がってくる。

展開のリズムがたるくて、語り口も低温なので、若干退屈してしまう場面もあり、会心の作とは言えない。しかし映画全編に漂う韓国の若者たちの諦念、やるせなさ、怒りに胸がざわざわした。フィッシュマンの周囲の人間たちのエゴイズム、一人の人物が自分のなかに抱え持つ善人でもあり悪人でもあるような両義性をしっかり提示していたのもよかった。

フィッシュマンはCGではなく被り物とのこと。そのビジュアル・インパクトはなかなかのもの。

毒舌で、はっきり自分の意志を表明する気の強い女性を演じていたパク・ボヨンがよかった。丸顔でコケットな顔立ちの女優だ。

大いなる沈黙へ

 

映画『大いなる沈黙へ』オフィシャルサイト

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見逃していたこの作品、ようやく見ることができた。会場のユーロスペースはほぼ満席。

3時間弱の言葉のない沈黙の時間、修道士たちの祈りと修道院の周囲の美しい自然が流れる。最後のほうにごく短い時間、修道士たちが雪の斜面で戯れる場面が写る。

修道生活を画面を通じて体感するような感覚で3時間過ごすことができた。自宅でDVD鑑賞ではこの映画の時間を私は我慢することができなかっただろう。

なすべきことが定められ、神にひたすら向き合うあの静謐で平穏な世界は、ある種の理想郷であることは間違いない。彼らは至上の幸福のなかにある。しかしそんな彼らはあの平坦な日々のなかで退屈に死にそうな気分になったりすることはないのだろうか?
孤独な修道生活のなかで、彼らのなかの「人間」を抑えきれなくなるときもあるはずだ。映画では当然そうした場面は映し出されることはないのだが。

やはり自分も一度は修道院に寝泊まりしてみたいと思った。

サムソン(1961)

サムソン(1961)SAMSON

www.polandfilmfes.com

 

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ナチス占領下のワルシャワで逃亡生活を送るユダヤ人青年の姿を描く。

彼にのしかかる不安感、ストレスが、持続的に重苦しい映像を通して伝えられる。この青年はワルシャワのゲットーから脱出したものの、死にゆく同胞の運命を知りつつ、自分だけが生存し続けることに罪悪感を覚え、逃亡生活のなかで激しく葛藤する。最後、ナチスの兵隊たちに手榴弾を投げ、彼らもろとも崩壊した瓦礫のなかで死んでいく彼の笑顔や安らかで解放感にあふれていた。