閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

シェイクスピアの驚異の成功物語

スティーヴン・グリーンブラット/河合祥一郎訳(白水社,2006年)
シェイクスピアの驚異の成功物語
評価:☆☆☆★

                                                              • -

GREENBLATT (Stephen), Will in the World: How Shakespeare Became Shakespeare, New York, Norton, 2004.
原著はピュリツァー賞ほか数多くの賞を受賞したシェイクスピアの評伝.シェイクスピアの人物像を作品の関わりから読み解いていく試み.シェイクスピアにはそもそも伝記的資料は乏しい.筆者は作品の精緻な分析により,想像力を膨らませ,その作品の背後にあるシェイクスピアの人生の再構築を試みる.
解釈者の主観的アプローチによる文学的シェイクスピア像の提示がなされている.
50,60年代の「新批評」の流れの中での「作者の死」以後,文学作品は作者の手を離れ,読者の読解によって変容するテクストとして検討されるのが主流になったが,近年になって再び文学研究における「作者の再生」の流れが見られるようになった.この著作はこうした作品の歴史や状況の形成要素としての「作者像」再構築の流れの中に位置づけることができる.巻末の解説で訳者の河合祥一郎氏が,簡便な現代批評史概説を行い,こうした研究動向を的確に解説している.本文の河合氏の訳はこなれていてとても読みやすいものだ.
シェイクスピアの初期の作品から順々に考察することで,その背景にあるシェイクスピアの姿を記述しているのだが,年少時代における「寓意道徳劇」の影響とか後期の「リア王」以降に意識的に行われるようになった「欠損の劇作術」など興味深い指摘はたくさんあったのだが,全般的には期待していたほどには面白くなかった.シェイクスピアの現実の生き様自体は,その作品とは比べものにならないほど平凡でドラマに乏しいものだからかもしれない.作品から敷衍する著者の推理にも強引に感じられる部分がいくつかあった.あっと驚くような独創性を感じる新解釈は,これは僕がシェイクスピアについて素人だからかもしれないが,見あたらなかった.無味乾燥な内容,文体というわけではないが,全体に平板な記述が続く.
こうした文学的伝記は実は十九世紀の文献学者たちがかなり詳細なものを残している.文学資料と作者との距離の取り方や,書き手自身の意識のありようが,十九世紀の碩学とこのグリーンブラットのような現代の研究者では大きく異なるわけだが,正直なところ,書かれた結果にはそれほど大きな差は見いだせないようにも思うこともけっこうある.むしろ十九世紀の碩学の伝記的研究はその資料探索の徹底において,現代の研究者をはるかに凌駕する場合も多く,著作の「迫力」という点では現代の研究者にはとうてい到達できないレベルに達しているものも少なくない.
伝記的記述をする場合,十九世紀末から二十世紀初頭の文献学者の仕事は今一度丁寧に見直す価値があるように,この著作を読んで思った.