閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

サンパウロ市民

青年団
ソウル市民五部作 特設ブログ

  • 作・演出:平田オリザ
  • 美術:杉山至
  • 照明:岩城保
  • 音響:泉田雄太
  • 衣裳:有賀千鶴、正金彩
  • 出演:山内健司志賀廣太郎、たむらみずほ、天明留理子、小林 智、島田曜蔵、古屋隆太、鈴木智香子、石橋亜希子、井上三奈子、大竹 直、熊谷祐子、郄橋智子、村井まどか、山本雅幸、堀 夏子、村田牧子、齋藤晴香、石松太一、井上みなみ、ブライアリー・ロング
  • 劇場:吉祥寺シアター
  • 評価:☆☆☆☆★
                                                • -

今回の吉祥寺シアターでの『ソウル市民』五部作公演、シリーズの原点である『ソウル市民』と新作『ソウル市民1939 恋愛二重奏』、『サンパウロ市民』の三作を観た。いずれもほぼ同じ設定、同じ場所で、同じような展開の話である。年代と場所が異なるだけ。異国に暮らす裕福な日本人商家の居間が舞台で、その場所にやってくる様々な人たち(家族に限らない。使用人や書生もいる。その上、やたらと訪問客が多い家なのだ)の心理をリアルな会話のやりとりによって表現することで、その背景にある差別という普遍的な問題、そして時代の不安を描き出す。

登場する一家の人々は善良な、そして自身の善良さに疑いを抱いていない平凡な日本人である。彼らの多くは自分たちが抱いている差別意識については自覚がない。しかし現代の観客である我々は、彼らの会話や振る舞いのなかに立ち現れる無意識の差別意識を、演劇表現を通して明瞭に感じ取ることができる。芝居は彼らの差別を批判、糾弾しない。ただそういうものとして提示する。我々は彼らの姿を通して、自身が今持っているさまざまな差別感情の醜悪さを考えないわけにはいかない。
このシリーズで描かれているのは差別の問題だけではない。植民地で平凡で幸せな日常を送る人たちは、いずれも歴史的な事件が起こる直前にいるのであるが、この後に何が起こるのかは知り得ない。観客のわれわれは彼らのその後に待ち受ける歴史的事件を知っている。これは動乱の直前の束の間の平穏なのだ。登場人物たちはこれらから起こりうることを知らないまま日常平凡の幸せを享受しつつ、時代の動きは敏感に感じ取り、その影に不安を覚えていることが、舞台表現を通して何となく感じ取られる。その漠然とした不安のなかでの、ささいな非日常的イベントに対する高揚、そして恋愛の甘美。未来を知ることができない人間の宿命的悲劇が、日常のなかのささやかな狂騒、喜びとの対比のなかで表現されている。

同じ主題に基づく人間心理のあり方の華麗で繊細な変奏曲でもあり、そして時代・社会の流れのなか個人という大きな問題を定点観測によって浮き彫りにした重厚な叙事詩でもある。

サンパウロ市民』では、この連作の異端児であり、平田オリザ自身がパンフレット序文で書いているように、「あまり例のない、それでいてひどく地味な実験」が行われている意欲作だった。しかしこの導入された「実験」によって、この連作を総括する美しい見事な変奏曲となっていた。『サンパウロ市民』は『ソウル市民』の平田自身によるパロディと言える作品となっている。『ソウル市民』を中心に、『ソウル市民1919』『ソウル市民昭和望郷編』に登場するエピソードが『サンパウロ市民』には引用されているのである。このことはパンフレット序文で平田自身によって明らかにされている。芝居のセットは『ソウル市民』とほぼ同じ、豊かな日本人文具店の居間。
芝居の部分が始まると(他の平田の芝居同様、開演前、開場時から舞台上では人物の出入りとやりとりがある)、『ソウル市民』に出演していた山内健司が『ソウル市民』と同じく、一家の叔父役で、『ソウル市民』冒頭と全く同じ台詞を話始めるのだ。私は開演前に平田の序文を読んでいなかったので、ちょっとの間、自分が芝居の日時を間違えてしまったのかと思った。
『ソウル市民』とほぼ同じ家族構成で、一部まったく同じエピソードを取り入れながら、パラレル・ワールド的に『サンパウロ市民』は展開する。しかし同じような世界とエピソードを重ねながら、『サンパウロ市民』で描かれるのはもちろんサンパウロへの移住者の物語であり、『ソウル市民』の世界との重なりとずれによって、徐々に南米移民特有の状況を明らかになっていく。

パロディとしてのパラレル・ワールドを愉しみながら観ていたのだけれど、結末部の歌と踊りの場面からじわじわと感動を覚える。サンパウロの寺崎家の人々の善意と優しさと差別の中に、祖国を離れ暮らす人々にある心細さ、諦念、後ろめたさ、揺らぎが、その歌と踊りから浮かび上がってきたからである。
サンパウロ市民』は『ソウル市民』連作の他の作品を観た方にはとりわけ、しかしまだ『ソウル市民』シリーズを一作も見ていない人にも、強力に薦めたい作品である。昨日の客席には空席があった。こんな芝居に空席があるのは本当にもったいない。