閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

愛についてのキンゼイ・レポート

http://www.kinsey.jp/

原題は「Kinsey」というシンプルなもの。邦題の「愛についての」はより正確には「性愛についての」あるいは「セックスについての」とすべき。キンゼイの名前と仕事自体、今では忘れられているので説明的な邦題も仕方ないのかもしれないけれど、キンゼイが調査したのは「愛」という形而上的問題ではなく、性行為の実際という極めて即物的な、しかし社会的・宗教的タブーゆえに真正面からとりあげられなかった問題である。「愛について」という邦題は、映画で描かれているキンゼイの理念と行動を隠蔽する偽善的なものだ。キンゼイはまさにこうした欺瞞と戦ってきたことを映画で描いているというのに。
もっとも「愛」の問題がこの映画の中で描かれていないわけではない。キンゼイ夫妻の穏やかで互いの信頼感に満ちた愛情表現は、通奏低音のように映画の中で奏でられていて、キンゼイが調査する性愛の問題と対比されることで、映画の基調をなしている。しかしキンゼイのレポートは、極私的な問題としてその全貌が明らかにされてこなかったセックスのみがその主題なのだ。
性の姿を客観的に明示することで、性にまつわるいくつかの隠微で無意味な因習や偏見がとりのぞかれる契機をつくったキンゼイ・レポートの功績は大きい。
しかしいくら性的偏見がかつてより大幅に減ったとはいえ、己の性意識を再検討してみると、性的な事柄はやはりタブーの感覚が強く、己のセックスについて語ることには相変わらず大きな抵抗感を持っている。例えばキンゼイ一家では食事の際に家族のなかで親子で性の問題を話題にしていたが(長男だけは拒否反応を示す)、僕が将来娘とこうした話題でフランクにはなせるかといえば、とうていできるとは思えない。家族とは、まさに直接的に性的な関係に基づいて成り立っているゆえに、性的な問題からは遠ざかっていきたい。セックスや自慰は誰もがしているきわめてありふれた行為であり、それを行っていること自体は恥じることは全くないのだが(むしろしていないことのほうが恥ずかしかったりするのだが)、問題は性行為の際には、通常社会的自我、理性的自己というのを捨て去らなければならないということだ。いや捨て去らなくても別にできるのだけど、無・理性状態になり、まさに本能に支配されるままにことを行うのが常態であると僕は思うし、そういう状態になれるからこそ、そういう状態の相手を所有できるからこそ、性行為は楽しいし味わい深いものであるように思うのだ。たとえば、子作りという「理性的」な目的のための性行為をやっていた時期があるのだが、そのときのセックスの楽しくないこと、味気ないことと言ったら。
親子関係の「愛情」のやりとりも、実はこうした本能的な喜びと結びついているような気がうすうすしていて、それゆえなおさら家族間では性的な事柄は遠ざけておきたいような気がする。
映画の中でも、即物的に扱いきれない性のやっかいな部分については、「愛に基づく独占的所有欲」という形で扱われてはいたけれど、僕としては非理性的、従本能的な存在になってしまう己を晒してしまわざるを得ないところに、性のタブーの根本的な問題があるような気がする。
映画の話に戻ると、キワモノ的な邦題ではあるものの、内容は丁寧に作られた品のよい伝記映画。もっとも主人公の使命が使命だけに、下品に流れると、観られたものではなかっただろう。俳優がいずれもうまい。特にキンゼイ妻役のローラ・リニーのコケットで豊かな表情は魅力的だった。