http://eiga.com/official/cyborg/
I AM A CYBORG, BUT THAT'S OK
個人的にはこの作品が今年見た映画の中ではナンバーワン。「ラブコメ」という分類がされているが、「ラブコメ」であるにせよ「異色の」という形容詞を頭につける必要があろう。『親切なクムジャさん』、『オールドボーイ』、『復讐者に憐れみを』の《復讐三部作》の監督であるパク・チャヌクの作品であるからには、ありきたりのラブストーリーではありえない。
自分を戦闘用サイボーグだと思い込んでいる少女が主人公。彼女は祖母に溺愛されて育てられ、祖母のことを深く愛していたが、その祖母が痴呆症で施設に強制収容されてしまった。これがきっかけとなり彼女は精神に変調をきたすようになる。
自分をサイボーグだと思い込み、エネルギー補給のため充電しようとした彼女は、感電で失神してしまう。精神病棟に入院させられそこで生活を送るようになるが、彼女は食事を一切とろうとしない。サイボーグである彼女はご飯を食べると「壊れてしまう」からだ。食事をとらない彼女は日に日に衰弱していく。
同じ病院には他人のものならどんなものでも(心でさえ)盗み取ってしまう青年が入院していた。彼女は彼に自分が持っている「同情心」を盗み取ってもらうよう懇願する。自分から同情心を取り除くことで大好きな祖母を奪い取っていった「白い人たち」を惨殺し、祖母を奪還することが彼女の望みなのだ。妄想の中で彼女は戦闘用サイボーグとなり、口から薬きょうを吐き出しつつ、五本の手の指から弾丸を機関銃のごとく発射し、病院の医者たちを殺戮する。この妄想シーンがよくできていて大笑いする。
祖母の奪還とならび彼女には気にかかっていることがある。それは「自分の存在する意味」である。祖母は強制入院間際に彼女にその存在理由を教えてくれようとしていた。しかしその言葉は彼女に届かないまま、祖母は車に乗せられてしまった。彼女には自分の存在の意味がわからない。拒食を含む病院での彼女の格闘は、自己のアイデンティティ捜索の真摯な試みでもあったのだ。「自分の存在する意味」を何度か問いかけつつも、その問いかけは結局はわき道にそれ、混乱し、結局は不条理と無意味に行き着くだけだ。彼女はそうした徒労を繰り返す。
何でも盗み取ってしまう彼が彼女のそばによりそうようになっても、彼女の探索が徒労に終わることには変わりはない。彼女は自分の生に何の答えも見つけることができないのだ。しかし彼がそばによりそっていることは、そうした徒労の過程に何らかの意味を与えている。彼女は不条理の生を彷徨し続けなければならないが、その彷徨は絶対的な孤独の中で行われているわけではもはやないのだから。
映画をみる限り、彼女および彼の行く末に現状突破の出口は見えない。サイボーグである彼女の格闘は空しくループを繰り返していくように思える。「私の存在する理由」を求めて藻掻く彼女の姿が真摯で切実であるだけに、その不毛な探索の有様の痛々しさが胸を打つ。生きることに意味などない。私たちは結局は死という結末に向かって歩んでいくのだという虚無感から完全に逃れることはできない。
やはりこの映画は甘い恋愛映画だ。残酷で容赦ない生の虚無の中で、一緒によりそい、孤独を共有できる誰かを見つけることができた彼女は幸いである。たとえ彼女の閉塞した現実に出口はなかったとしても。