閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

顔よ

ポツドール vol.17
http://www.potudo-ru.com/index2.html

  • 脚本・演出:三浦大輔
  • 照明:伊藤孝(AT CORE design)
  • 音響:仲村嘉宏
  • 美術:田中敏江
  • 舞台監督:矢島健
  • 衣装:金子千尋
  • 出演:米村亮太朗、内田慈、古澤祐介、白神美央、井上幸太郎、脇坂敬一郎、松村翔子、岩瀬亮、安藤聖、横山宗和、後藤剛範
  • 上演時間:2時間半
  • 劇場:下北沢 本多劇場
  • 満足度:☆☆☆☆
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本多劇場の舞台の上下左右全体を占拠する舞台美術は圧巻だった。左手には二階建ての一軒家、右手には二階建てのアパートが「建設」されているのだ。序幕と最終幕では、客席側の第四の壁が「透明」ではないのだ。当然客席からは死角が大きくなる。部屋の中での人物の動きが、手前の壁(窓ごし、サッシ越しで中はのぞくことができるようになっているのだが)によって遮られるからである。
演劇舞台では写実的舞台でも「第4の壁」が透明であるという約束事は踏襲されているので(そうでなければ観客のフラストレーションが大きくなってしまう)、「第4の壁」がリアルに再現されているとかなりのインパクト、そして圧迫感がある。序幕で第4の壁をあえて設置するという仕掛けは、3年前の傑作『夢の城』でも使われていた。本公演ではそのやり方にさらに工夫が加えられている。

このリアルな舞台美術の中で序幕が10分ほど演じられるのだが、この序幕は登場人物紹介の幕となっている。暗転して、音楽が鳴り、スクリーンにオープニング映像が映し出された後、明るくなると舞台上の4つの部屋のうち、左下の部屋の「第4の壁」だけが取り払われている。こんな具合に暗転のたびごとに4つの部屋の客席側の壁が一部屋ごと取り除かれ、最終的には(エピローグである最終幕を除き)通常の「第4の壁」が透明の状態になる。

序幕で第4の壁をあえて提示した後で、徐々に取り除くことで、観客の「覗き見」感覚が強まる。今回の公演では一気に第二幕から「第4の壁」が透明化するのではなくて、一部屋ごと徐々に取り除くことによって、よく見えない他の部屋の様子が常に観客の好奇心を刺激し続ける。第4の壁が取り払われた部屋でのやりとりを追いつつも、見えないほかの部屋の様子が気にせずにはいられない。

舞台上での同時多発会話が今回の作品では多用され、しかも同時発話を、4つの部屋で同時進行する出来事と巧みにシンクロさせることで喜劇的な効果を生み出していた。各部屋で自律した対話が行われているのにもかかわらず、それぞれの部屋の対話が別の部屋で行われている対話と意味的なつながりをもち、舞台での状況をシニカルに表現するという仕掛けである。

この同時多発会話を使った実験劇のようなところもあった。各部屋でのテレビの画面や登場人物の携帯電話など小道具の使い方も巧みである。こうした工夫は過去のポツドールの作品でも使われていたが、『顔よ』ではこれまでのポツドール的テクニックのアンソロジーのようなところもあった。
逆に言えば、技術中心にお話が組み立てられ、ドラマ自体はとても人工的なもの、リアルな質感に乏しいものになってしまったようなところもあったように僕には思えた。人間の顔の美醜を主題としていると謳っているが、四部屋同時進行形式も、顔の美醜の問題が引き起こす愛憎のこっけいさも、これまでのポツドール作品になじみのもので、今作で過去の作品の世界を抜け出たような感じはしなかった。
展開のリズムとか、エピソードの提示の仕方の完成度が高くて二時間半の舞台に長さを感じることはなかったものの、新味が乏しかったためどこか物足りない。同時多発会話の多様は多分に実験的な要素もあったのかもしれない.ディアローグの組み立ての技巧的な面が強調されすぎてしまったように僕には思えた.

またポツドール的主題、スタイルの芝居が、本多劇場の広さとうまく折り合いをつけることに成功していないように思えた。おそらくある程度の狭さがあってこそ、隠微な後ろめたさを観客は共有できるところがあるのだ。役者の演技も心なしか繊細さを失い、大味になっているような感じがした。
三浦大輔はメジャー志向を公言しているけれども、あの性の醜さと滑稽さへの偏執狂的なこだわりと繊細な表現が、大劇場で今後どんな具合に発展・変化していくのだろうか。