閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

Waltz Macbeth

東京デスロック unlock#LAST/REBIRTH#1
http://deathlock.specters.net/

ここ数年の間に東京デスロックが「開発」したいくつかの斬新な舞台表現の仕掛けが効果的に取り入れられたきわめて独創的な『マクベス』だった。
風邪をひいて観劇前の体調はひどいものだったのだが、上演中はその体調の悪さを忘れてしまうほど面白かった。しかし同時に東京デスロックの特徴的な演出方法に決定的な違和感を抱いた舞台でもあった。

上演前に演出家からの口上がある。これから上演されようとする『マクベス』の粗筋が観客に説明される。
最初の20分間は無言劇である。平土間に設置された一辺10メートルほどの正方形の舞台に、地味な和装姿の役者がいすを手にして一人ずつ登場する。一通り役者が舞台上に出揃うと、無言のまま、椅子とりゲームが行われる。しかしこの椅子ゲームでは激しい椅子の奪い合いは行われない。むしろ残された椅子をめぐって互いに譲り合う、欺瞞に満ちた偽善的なやりとりによる椅子とりゲームである。あからさまな欲望が、わざとらしく隠蔽されているのだ。
椅子取りゲームは言うまでもなく『マクベス』の物語における権力奪取のゲームの暗喩として提示されている。このアナロジー自体は安易なのではあるが、椅子取りゲームの奇妙な譲り合いのルールや役者の動きやしぐさの優雅さゆえ、まったく陳腐には感じられない。
無言のまま展開する椅子とりゲームは、それでも徐々にゆっくりと激しさを増していく。
役者の中で一人だけ椅子とりゲームにかかわらずずっと座っていた壮年女性がすっと立ち上がり、正方形の舞台の角へと歩く。角に到達すると彼女は舞台中央に振り返り、「きれいは汚い、汚いはきれい」というあの有名な台詞を、やわらかい微笑を浮かべながら「宣言」する。この瞬間はすさまじくかっこよかった。空間が凍りつくような緊張感ある空気の中、この台詞が宣言される。序盤の椅子取りゲームが予選だとすると、この言葉をもって「ゲーム」の本選開始が告げられるのだ。
マクベス夫人の悩乱の場面では、中島みゆきの『時代』の歌詞に合わせ、マクベス夫人がくるくると回りながら踊る。目が回って足がもつれて倒れてもまた起き上がってよたよたと周り続ける有様は、壮絶にして滑稽、そして猛烈に美しく感動的だった。観客を唖然としながら、その狂乱を息を呑んで見守る。
旧作、『再生』で使われたきわめて印象的な仕掛け、役者がふらふらになるまで徹底的に踊り狂うさまを観客に見せる場面は、マクベスが破滅に至る最後の場面で用いられた。動かないバーナムの森が動き、殺されないはずの自分が殺されてしまう。たちの悪いなぞなぞのような予言に翻弄され破滅していくマクベスの表現として、あの狂騒的で激しいダンス表現はいかにもふさわしく思える。
最後の最後はまた導入部で見せた椅子取りゲームに回帰する。「きれいはきたない、きたないはきれい」の台詞で幕が下りる。この回帰的ラストは、いかにも陳腐だ。僕は気に入らなかった。循環的結末は単なる形式的なかっこうつけに思え、展開上の必然性を僕は感じない。

演劇的身体性を極端なまでに強調した刺激的なスペクタクルであった。
その一方で僕が感じた決定的な違和感は、この演出の「ことば」の軽視への偏向ぶりに由来する。この『マクベス』上演では、テクストとして坪内逍遥訳を選択している。坪内訳はその古臭さゆえにときに奇妙さ、滑稽さを現代人に感じさせるが、同時に高度な演劇性と詩的な美しさを持つテクストではないかと僕は思っている。現代の『マクベス』公演では普通は使用しない古びた坪内訳を敢えて選択しているのだから、その時代錯誤の古さがもたらす何らかの異化効果を期待したのだけれど、この訳の選択がほとんど演出で生かされているように思えなかった。役者も坪内テクストをちゃんとそれなりに消化した上で発話しているようにおもえなかったし、その提示の仕方にも工夫が見られなかったのことは残念に思った。
また上に記した公演概要の中で紹介した演劇的仕掛けはそれぞれとても印象的なものではあったけれど、ああした仕掛けを利用するにあたって、土台となるテクストは必ずしも『マクベス』である必然性を感じなかった。シェイクスピアのほかの作品でも、いやもっと言えば、どんな作品にも当てはめてちょっとアレンジすれば組み込めそうな仕掛けなのだ。独創的なアイディアというのはそうそう作られるものではないし、ひとつのアイディアを他の作品でも流用すること自体はかまわないのだけれど、デスロックの舞台表現の仕掛けは作品依存性が極めて低い、表現としての自律性の高さゆえに、土台となるテクストがそうした表現をはめ込むための容器に過ぎないように思えてしまう。フィギュアスケートの技術と音楽の関係にもしかすると近いものがあるのかもしれない。僕としては古典を上演するのであれば、『マクベス』なり『ロミオ』なりを今の日本の「私」が表現する必然性を、作品から感じ取りたい。演出家なり役者なりが、古典から何をどのように読み取ったか、に関心を持つ。
デスロックの舞台表現の仕掛けは、テクストの持つポテンシャルを新しい工夫によって引き出すというより、テクストの世界の矮小化、単純化、平板化の方向に作用しているような気がした。上演前にあらすじの説明が演出家からあったが、多彩な表現方法で舞台上で提示される表現内容はそのあらすじの輪郭をなぞったものでしかないように僕には思えた。あの表現は力強く印象的ではあるが、オリジナルの世界が抱え込む不可解さ、あいまいさ、深さというニュアンスが消し去られている。この文芸性の希薄さが僕の感じたデスロック舞台への違和感である。
ただこのおそらく意図的な文芸性の薄さは、表現の斬新さと力強さというデスロックの演劇の魅力と結びついたものであるようにも思える。だから一概に文芸性がないからだめだともいえないのだ。ヘンに取り込もうとすると、かえってだめになってしまう可能性もあるだろうし。