閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

人形の家

http://www.siscompany.com/03produce/20ningyou/index.htm

  • 作:ヘンリック・イプセン
  • 演出:デヴィッド・ルヴォー
  • 英訳台本:フランク・マックギネス
  • 翻訳:徐賀世子
  • 美術:礒沼陽子
  • 照明:小川幾雄
  • 音響:高橋巌
  • 衣装:伊藤佐智子
  • プロデューサー:北村明子
  • 企画・製作:シス・カンパ二―
  • 出演:宮沢りえ(ノラ・ヘルメル),堤真一 (トルヴァル・ヘルメル),山崎一(ニルス・クロクスタ),千葉哲也(ドクター・ランク),神野三鈴(クリスティーネ・リンデ夫人),松浦佐知子,明星真由美
  • 上演時間:2時間50分(休憩15分,10分)
  • 劇場:渋谷 シアターコクーン
  • 評価:☆☆☆☆☆
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今年これまでに見た舞台のなかでベスト.充実した観劇の喜びを存分に堪能する.
舞台が劇場内空間の中央に置かれ,客席が舞台を取り囲むセンターステージの形式だった.舞台脇には特設のS席が設置されている.コクーンでの興行は料金が高めなのでいつも購入するかどうか迷う.今回は現在の日本における「the 美人女優」と言ってもよい宮沢りえを間近で見ることができる特設S席を取ることができたら,見に行こうと決めた.日ごろ積み重ねている善行のおかげか,PIAの先行で特設S席最前列を確保できた.

期待を裏切らないすばらしい観劇体験となった.特設Sの舞台そでの席にいると,いつもの僕のコクーンでの定位置の二階席奥なんて芝居をまともに見られるような席だとは到底思えない.はるか遠くから井戸のそこを覗き込むようなものだ.コクーンぐらいの大きさの劇場で見るときは先行もしくは発売初日に1500円や2000円の差額をけちらずに,いい席を狙って購入するのが正解なのだと思う.

休憩二回をはさむ三幕構成.第一幕の途中までは美人女優,宮沢りえを間近から見る喜びにひたる.夫の出世に躁状態気味のノラを演じる宮沢の発話は,早口で上滑りしていく感じ.せわしなく場面が消化されていくが,これは演出上の計算だろう.ノラの疫病神,クロクスタ(山崎一)が登場してからドラマが本格的に始動する.ノラの家庭生活の幸福が,欺瞞によってかろうじて成立した危ういものであることが明らかになると,ノラは必死でこの脆く崩壊しかかった幸福を護ろうともがく.
第二幕以降は,宮沢りえの熱演にすっかり引き込まれ,彼女が演ずるノラに感情移入して,破滅への道のなかでもがく彼女の混乱と恐怖を感応した.現代的視点からだと多少説明過剰に感じられるところもあるが,イプセンの戯曲のドラマの作り方には完璧さを感じる.第一幕途中でサスペンスを提示したあとは,恐ろしく密度の高い会話によってそのサスペンスの強度が維持されたまま,ずっと結末近くまで物語を引っ張っていくのだから.息を呑んで成り行きを見守るようなハラハラドキドキの時間がずっと続くのだ.そして大詰めの場面では,ドラマに急激な転換がもたらされたあと,緊張感に満ちた夫婦の対決の場面が作品の思想的・社会的メッセージを鮮やかに印象づける.

ルヴォーの演出は,意外性のあるアイディアに満ちたものではない.そのアイディアは戯曲のことばから敷衍された定型的なものだと思ったが,物語のディテイルを丁寧に照らし出し,ドラマの骨格をより明瞭に示す優れたガイドであるように思った.写実的な舞台装置の額縁舞台ではなく,客席に取り囲まれたセンター舞台をあえて選んだことが効果を生み出していた.観客はまさに鳥かごのなかを覗き込むような感覚でノラの華やかさを最初のうち目にする.舞台空間は劇的には変化しない.しかし空間の移り変わりは,衣装の変化とともに,ノラの内面を鮮やかに表象していた.最初はおもちゃ箱の中のように,さまざまなオブジェによって本質が隠蔽されたメルヘンチックなカオスからはじまり,次第に舞台上からオブジェが減っていき,地の部分が露出していく.
最後は二脚の椅子だけが置かれたストイックな空間となり,そこで二人が対峙する場面の研ぎ澄まされたような強烈な緊張感のもと演出される.主体的な生の選択のために,すべてを捨て去ってしまうというノラの覚悟の壮絶さを象徴するスペクタクルだった.

宮沢りえは,とりわけ器用でうまい女優という雰囲気はないのだけれど,この緻密な台詞劇の軸として3時間弱の舞台を稀有の存在感で支えていた.彼女の見た目の美しさについてはあらためて言うまでもないのだけれど,服装の変化がノラの内面の変化と呼応しており,それぞれの服装がりえちゃんの多様な魅力を引き出していた(枠組みの入ったクラシックで保守的なドレスから舞踊用の赤と黒の妖艶なドレス,そして夫との対決の場でのシックなスーツ,さらにカーテンコールでのカジュアルないでたちまで).
宮沢りえの圧倒的な存在感をほかの出演者の名演が支えていた.夫役の堤真一も堅実にこなしていたけれど,疫病神役の山崎一の卑屈さの表現がとてもよかった.神野三鈴はあの八文字眉の困った顔がちょっと苦手なのだけれど,説得力のある演技で,生活の条件に流される受動的な生き方をしているようありながら実は信念の人であり,最終的にはノラの決断を後押しすることになるリンデ夫人をつくりあげていた.