東京デスロック REBIRTH#2 演劇LOVE2008
http://deathlock.specters.net/
- 作・演出:エンリク・カステーヤ
- 出演者:非公表
- 劇場:原宿 リトルモア地下
- 上演時間:50分
- 評価:☆☆
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こまばアゴラ劇場国際演劇月間の企画のひとつとして組み込まれた東京デスロックの公演.
「演劇LOVE」と題される三本の公演のうちの一つ.発情期,蜜月期の愛を描いているらしい二作は,この企画でアゴラ劇場へ招聘された海外団体へのトリビュートとした演目になっていて,それぞれ『ドン・キホーテ』と『ジャックとその主人』を下敷きにしたものらしい(まだ未見).
三本目は詳細が公表されなかった.作・演出はエンリク・カステーヤというスペイン人ぽい名前の不詳の人物で出演者も未公表.
三本のうちではこの演目が一番斬新な仕掛けが施されているらしいことが,ブログなどの感想から伺えたので,期待して見に行った.
結論的な感想から書くと,こうした陳腐な「実験」は表現として僕はまったく面白いと思わないし,評価もしない.アフタートークでの演出家の多田氏の発言によってその演劇表現への心意気を知ることとセットで,なんとか容認できるといった感じだ.
『CASTAYA』を演劇表現の可能性を広がりを感じさせる実験的作品と僕はみなすことができない.デスロック公演の常連観客への馴れ合いを前提とした内輪のお遊びだと思った.
僕は東京デスロックの創意は好きなものもあれば,そうでないものもある.どちらかというとデスロックの公演のギミックそのものよりも,毎回何か新しい表現を作り出そうというその創作姿勢が僕は好きなのだ.
以下の内容はネタバレになってしまう.
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まず思い浮かんだのは20世紀初頭のダダイストたちが詩作や美術,パフォーマンスの分野で行った遊戯性の強い実験である.そしてジョン・ケージの無音の三楽章からなる《4分33秒》.演劇の分野では,ピーター・ブルックの有名な「何もない空間」というフレーズや演劇から演劇的要素を削ぎとっていくことによって演劇の本質に迫ったベケットの作品群が思い起こされる.いやこんなビックネームを出すまでもなく,何もない空間に役者をぽんとさらすことで芝居を成立させる,というアイディア自体はありふれてたものなのだ.この思いつきだけでは芝居として成立しがたい.他者である観客にこの「役者の身体以外には何もない」状態に対峙させるには何か工夫が必要となる.
今回の『CASTAYA』では,エンリク・カステーヤという架空の作・演出家を設定したこと,そして大半の観客にとっては未知の役者である韓国人女優を使う,という仕掛けで40分の無言無動作劇を成立させようとしていたが,僕にはまだそれだけでは不十分だった.
はじまって五分ぐらいは,このあと何か合図があって,動きが加わるのかなと思っていた.始まって10分たつと,これは最後までこのままの状態であることが見当がついた.狙いが読めてしまった時点でこの芝居は僕にとっては終わったも同然だ.上演時間は1時間ぐらいだろうから,ずっとこのままこの仕掛けに付き合うのがいやで,後半は持ってきた文庫本を読んで時間をつぶした.
こういったすかしたお遊びを敢えてやってみたくなる気分は理解できないわけではない.またこうした愚行を実際やってしまったことによって,一部の観客から徹底的に拒否されるというリスクを引き受ける演出家の覚悟,蛮勇は天晴れだと思う.
でもやっぱり表現としては評価できない.あれを舞台作品として成立させるのではあれば,もう一,二工夫必要であるように思う.
例えば,まず僕が思い浮かべたのは,女優を全裸で登場させるとか(とりあえず2000円のもとはとれた,という満足感は得ることができただろう.).あるいはパフォーマンスを15分ぐらいで打ち切って,「これで本日の公演は終了しました」というアナウンスを流して,アフタートークもなしに終了する.これをやると本気で怒り狂う観客が出てくる可能性がさらに高まるだろう.僕も激怒するかもしれない.観客からは愛想をつかされるだろうが,インパクトの強い,より深く記憶に残る公演になったように思う.
内輪の演劇なら内輪の演劇でまったくかまわないのだけれど,「演劇の世界と可能性を広げる」みたいなことを演出家が考えているのであれば,あまり発展性のなさそうで,頭でっかちの学生演劇でやっていそうなこんな実験的お遊びを,本公演で行う意義は乏しいように,僕は思った.