閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

The Diver

http://setagaya-pt.jp/theater_info/2008/09/the_diver.html

  • 作・演出:野田秀樹
  • 共同脚本:コリン・ティーバン
  • 作調:田中傳左衛門
  • 照明:クリストフ・ワーグナー
  • 音響:ポール・アルディッティ
  • 出演:ハリー・ゴストロウ、キャサリン・ハンター、野田秀樹、グリン・プリチャード
  • 囃子方:田中傳左衛門(囃子)、福原友裕(笛)
  • 上演時間:1時間20分
  • 劇場:三軒茶屋 世田谷パブリックシアター
  • 評価:☆☆☆
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見終わったあと、核になる部分がわからなくて、狐につままれたような気分だった。はずかしながら上演中にとかけられた「4人殺した」のあとの2人がわからなかったのだ、。「堕胎した二人じゃん」と人に教えられ、ああそうか。「葵上」のエピソードが核に思えたのに、「海人」をタイトルした理由もよくわからなかったのだけれど、観劇後に一緒に見た人と話をしたり、家に帰ってから思い返したりするうちにわかってきた。

「現代能楽集」というシリーズ名から、「葵上」「海人」(あとは「夕顔」?)といった謡曲をベースにした翻案を考えていたのだけれど、「The Diver」の骨格となっているのは謡曲よりもむしろ日野OL不倫放火殺人事件という1993年に起こった殺人事件だ。この事件にはなんとなく記憶がある。帰宅してから検索をかけてみるとWikipediaにこの事件に詳しい記述があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8EOL%E4%B8%8D%E5%80%AB%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

振り返って考えるとよくとてもよく出来た芝居だ。
事件の概要がそのまま作品の概要となる。
不倫関係のもつれから、妻と別れるという男のことばを信じて、女は二度堕胎する。しかし二度目の堕胎のあと、偶然女は男の妻に会い、男の妻が二人目の子供を妊娠していることを知り、大きなショックを受ける。その後、この不倫関係は妻の知るところとなる。妻の電話による執拗な攻撃に女は深く傷つく。男はおろおろするばかり。不倫関係は終焉を迎える。女は男と妻が家を空けるほんの数分の間隙に男の家に侵入し、男の家に放火する。家に残っていた二人の子供はこの放火によって焼け死んでしまう。
この骨格に「葵上」「夕顔」といった「源氏物語」の場面、謡曲「海人」の場面が、隠喩的に幾層にも重ねあわされる。

劇は女の収監場面から始まる。精神科医が裁判に向けての精神鑑定を女に対して行う。女は次々とその姿を変える。「源氏物語」に出てくるさまざまな人物の葵上、六条の君、夕顔、そして謡曲の「海人」。恋に苦しんだこれらの人物は、不倫相手の子供を殺害した女自身の抱える多重性を表象する。「源氏物語」、あるいは謡曲のこれらの場面が断片的に提示される。
放火殺人の罪で死刑宣告を女は受ける。刑が執行される。形執行のあとの場面で、女は海のそこへともぐる海人の姿になっている。潜水した海底で女はなにかを見つけ、安堵の表情を浮かべる。

変幻自在に幾人もの「女」を演じわけ、力強い身体の動きで魅了した主演女優、キャサリン・ハンターはうわさどおり本当にすばらしい女優だった。ある面通俗的でありふれた不倫の事件を、謡曲と「源氏」の世界に重ね合わせることで、愛憎のおぞましさを立体的に描き出す脚本も見事だと思う。

しかし「4人殺した」という女のつぶやき、そして女にある種の救いを与えているようにも見える最後の場面は、物語の全体を見渡したあとで思い返すと、僕には受け入れがたいところがある。

女が実際に放火によって殺したのは、不倫相手の男の子供二人である。にもかかわらず女は「4人殺した」といい続ける。この残りの二人に僕はひっかかってしまったのだけれど、ちゃんと見ていれば残りの二人は彼女が堕胎した子供であることは明らかだ。しかし改めて言うまでもなく、実際にこの世に生を受け、自律した存在であった人間を焼き殺すことと、自律した生命体としては存在しえず、母胎にあり、母体の一部である胎児を中絶することは、まったく次元の異なる行為だ。

中絶した胎児をこの文脈で「殺人」とみなし、自分が焼き殺した子供二人と並列したうえで「4人殺した」と主張し続けるという行為には、罪なき子供の焼殺が胎児二人の堕胎によって相対化されうるものである考えが見え隠れする。「4人である」と彼女に言わせることで、この台詞を浮き上がらせることで、加害者だけでなく犠牲者としての彼女の姿が強調されていくように僕には思える。
しかし繰り返すが、この世にある子供を焼き殺すことと、自分の胎児を堕胎することは、その行為の重みには絶対的な違いがあり、比較の対象とはなりえない。二人の子供の殺人という事実に対し、堕胎を持ち出して「二人殺した」というのは言葉遊びに過ぎず、それもかかなりたちの悪い言葉遊びだと僕は思う。

避妊しないで性行為を行った場合、それがしばしば妊娠を引き起こすということは、ある程度の年齢であれば当然知っていることであるし、自らの欲望による性行為の結果生じた事態については、やはり自らの責任において始末をつけなくてはならない。中絶することに抵抗を感じるのであれば、生むこともできるのだ。男にいいようにだまされて中絶を繰り返し、男の妻に執拗に罵倒された挙句、捨てられてしまうこの女の愚かさには同情の余地はないわけではない。しかしその報復として相手の子供二人を焼き殺したことはともかく(殺したくなる気持ちはわからないでもない)、その行為を自分の堕胎とあわせて「4人殺した」と語る(あるいは語らせる)センスには僕はまったく共感できない。


この事件で悲劇の主人公となりえるのは、何よりもまず何もわからないまま焼き殺されてしまった二人の子供であり、そして夫の愚かな不倫によって自分の分身たる子供を焼き殺されたしまった妻だろう。
こうしてみると最後の潜水の場面は、この女への何らかの救いを提示しているようにしか思えない。「4人殺してしまった」という台詞にある子供を焼き殺した女への生ぬるい共感、そしてその後の救いの場面の物分りのよさに野田秀樹に僕は表現者としての倫理の幼稚さを感じてしまう。これは戦略的なものなのかもしれないが、この甘ったるさに僕は「俗情への結託」という文句を思い浮かべる。

日野OL不倫放火殺人事件の被告は実際には死刑宣告を受けず、無期懲役で刑が確定したそうだ。おそらく今でも服役中なのだと思う。
Wikipediaの記述で興味深かったのは、この子供を焼き殺された夫婦は事件後も離婚していないということだ。夫婦関係を維持するだけではなく、この事件後にさらに一男一女をもうけているらしい。もしかするとこのすさまじい事件の後、平穏で平凡な家庭生活が実現されているのかもしれない。すごいと思う。人間の業の深さ、愛憎の得体の知れなさを感じずにはおられない。