閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ブタがいた教室

http://www.butaita.jp/
ブタがいた教室(2008)

  • 上映時間:109分
  • 初公開年月:2008/11/01
  • 監督:前田哲
  • 原作:黒田恭史『豚のPちゃんと32人の小学生』(ミネルヴァ書房刊)
  • 脚本:小林弘利
  • 撮影:葛西誉仁
  • 美術:磯見俊裕
  • 編集:高橋幸一
  • 音楽:吉岡聖治
  • 出演:妻夫木聡大杉漣田畑智子原田美枝子
  • 映画館:東武練馬 ワーナーマイカル板橋
  • 評価:☆☆☆☆★
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賛否が大きく分かれている作品のようだが、僕はとても面白かった。子供たちと先生に感情移入して途中から泣き通し。

何年か前にテレビのドキュメンタリーとして放映された「小学校でブタを児童が飼育して、それを食べる」という試みについては、ドキュメンタリー番組自体は見ていなかったけれど、話しとしては聞いたことがあった。正直、悪趣味で浅はかな試みに思え、不愉快だった。そんなものを「生命の教育」と称するなんてひどくふざけた話に思えた。

フランスの豚肉生産システムについてのプレゼンテーション書類をアルバイトで訳したことが数年前にあった。現在の食肉生産がまさに工業生産物の生産のように、人工授精からとさつ、精肉まで綿密な計画に基づいて行われている、その実態についてかなり明確なイメージを持つことができた。数ヶ月前に早稲田松竹で見たドキュメンタリー、「いのちの値段」では、大量の農作物、畜産品の生産が現代社会において、いかに殺伐とした単調さのなかで行われているかが描かれていた。おそらく日本に住むわれわれが、安価で安定した農作物、畜産物を日常的に手に入れることができるのは、流通面を含め、こうした食物生産に関する「非人間的」システムが確立しているからだ。

食肉用の動物を飼育することと、ペットを育てることはまったく異なる行為であり、むしろそれを意識的に峻別することによって、われわれは肉を生産し、食べることが可能になっているように思う。だから学校の教育の場で、「生命の尊厳」とか「食のたいせつさ」を掲げながら、家畜をペットとして飼育し、それによって「擬人化」してしまった家畜を、食肉として消費する、というのはきわめて倒錯的であり、悪質な欺瞞であるように思えたのだ。これはこの映画を見て感動してしまった今も変わっていないし、もし自分の子供が通う学校でこのような実践が行われるとなれば、僕はやはり強硬に反対すると思う。

映画を見る前は、このような実践が感動的な美談としてドラマチックに演出された作品だとイヤだなぁと思っていたのだけれど、見ているうちにどんどん引き込まれ、しっかりと感動させられてしまった。何がすごかったかというと、多くのレビューで書かれているように、クラス全員で世話をしてきたそのブタを食べるか食べないかをめぐって、クラスの児童たちが議論する場面の迫真ぶりである。脚本で子供たちの部分は白紙だったそうである。180日におよぶ撮影のなかで、役者である子供たち自身に、ブタの行く末についてどういったことが可能であるのか、自分の考えをどうやってことばにするのか考えさせたという。ペットとなり、「擬人化」されたブタを殺して食べてみたい、などと本気で思う人間はまずいないだろう。誰もが殺したくないと思うに違いない。にも関わらず、卒業というリミットを前に、子供たちの意見は「食肉工場へ送る」と「下級生に託して、ブタを学校で飼育し続ける」に二分される。

「食肉工場へ送る」という意見の子供たちには、おそらく「大人」的な事情、都合を敏感に感じ取っている。すでに巨大化し、世話をするのがかなり大きな負担となっていたに違いないブタを、自分たちの卒業後も飼育し続けることの困難さが彼らには見えている。そしてもしかすると最後の最後まで判断の一切を子供たちに託していた担任の先生の困惑も感じ取っていたかもしれない。
「食肉工場へ送る」ことに反対する子どもたちは、こうした選択肢に傾くことにある現実的計算の欺瞞を感じ取り、それに激しく反発している。

そしてこの企画のそもそもの立案者である先生は最終的にどのような選択をしたのか。もしかすると彼はこの思い付きの当初には、このブタの飼育と食肉という実験的な実践によって、一年のちに提示される問題がこれほどまでのやっかいなものであることを想像していなかったかもしれない。最終的には大人であり、担任である彼がその結果を引き受けなければならない。その決断はものすごいプレシャーとストレスだったと思う。
妻夫木聡はこの難しい役どころを実に見事に演じ、リアリティある人物像を提示していた。ちょっとへんなところに力が入るととたんに嘘っぽくなってしまうような難しい役柄だと思う。そのにやけた顔立ちはちょっと見ていて不愉快なのだけれど、頭のいい役者だとあらためて思った。

討論を通じて子どもたちは「生命」についての徹底的な問いかけ、そこから自分の考えをことばにすることを強いられる。強烈な教育体験であり、その教育効果はきわめて大きいだろう。この奇跡的ともいえる体験は子供たちにとって大きな宝となるに違いない。しかし教育実践としてはきわめて例外的、実験的な試みであり、一回きりしか成立しないように僕には思える。二回目をやってしまうと、この実践は嘘っぽく白々しいものになってしまうのではないだろうか。生命を扱うものだけに、もしこの実践を行うのなら生半可な覚悟ではできない。教師はこの試みそれこそ全日常、全存在を投入するぐらいの覚悟が必要だと思う。かつて大阪の小学校でこの試みが完遂できたのは、それこそ若い新任教員が死に物狂いでこの教育活動に身を捧げたからであろうと思う。
ペットとして一緒にすごした動物を、自らの手で食肉工場へ送り、それを食べるという行為は、あまりにもシビアであり、徹底した議論のうえでの決定であっても、心身をぼろぼろに疲弊させるように僕には思える。