閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

化粧 二幕

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二日連続で「楽屋もの」の芝居を見ることになった。
近年、燐光群の公演などに客演して圧倒的な存在感を示す渡辺美佐子による一人芝居。90分。台詞の量もすごいが、運動量もかなり多く、動きも激しい芝居だった。76歳の女優が演じてるとは思えないパワフルな舞台に圧倒される。

以下の内容はネタばれ含む。ネタばれしないほうが楽しめる舞台だと思うので、これから見ようと思う人は読まないほうがいいかも。



渡辺美佐子大衆演劇一座の女座長の役を演じる。座長は取り壊し寸前のぼろぼろの楽屋にいる。そこで化粧をし、舞台用の顔を作り、そして作った顔を壊しながら、女座長は舞台と現実の虚実の世界を行き来して、観客を惑わせる。夢うつつの状態にあるようにこの虚実の世界の境界は曖昧だ。
母に捨てられた子の物語である『伊三郎別れ旅』が劇中劇として断片的に提示される一方で、女座長自身がやはり芸人生活のなかで子どもを捨てた過去を持つことが明らかにされる。二つの世界は楽屋のなかで共鳴しあい、交錯していくなかで、女座長の主体に激しく揺さぶりをかける。絡み合う二つの世界の物語が進展していくにつれ、彼女の気分は高揚していく。しかし離ればなれになった母子の再会の物語は虚実の両方の世界で幻滅に終わるのだ。いやそれだけではない。虚実の中を行き来し、もがいていた女座長の姿自身が演劇的虚構であったことが最後の最後に示される。彼女がいたその劇場自身がすでに取り壊し作業の途中だったのだ。彼女は廃墟同然となった無人の劇場の楽屋で一人芝居をずっと演じ続けていたのだ。ほとんど狂気といってもよい状態のなかで虚実の世界を演劇的に提示する彼女の絶望的な姿に、芝居作りに付随する業の恐るべき深さが示されているような気がした。

いわゆる大衆演劇を僕はこれまで見たことはないが(歌舞伎はかなり大衆演劇的なジャンルだと思うが)、約束事に沿った芝居作りによって、観客にいかに効果的にカタルシスを与えるかが周到に計算されているであろう大衆演劇の狡猾さを、おそらく僕は素直に楽しむことはできないような気がする。
しかしその世界を『化粧』のようにさらに外側から、大衆演劇的な型が支配する世界を、客観的に操作する仕掛けがあると楽しむことができる。『化粧』は大衆演劇の定型を核に据えつつ、それを劇中劇構造のなかで置くことで、「演じることは何か」、「役者とは何か」といったメタ演劇的問いかけが効果的に示されている作品だ。
大衆演劇の世界で生きる役者なら、この芝居をどのように演じ、またこの芝居を見てどのように感じるのだろうか、と想像した。