- 制作年:1963年/91分/カラー
- 監督・撮影:マノエル・ド・オリヴェイラ
- 出演:ニコラウ・ヌネス・ダ・シルヴァ、エルメリンダ・ピレシュ、マリア・マダレーナ
- 映画館:京国立近代美術館フィルムセンター
- 評価:☆☆☆☆★
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
百歳になってもまだ現役で映画を撮り続けているポルトガルの監督、マノエル・デ・オリヴェイラの『春の劇』を観に行った。1963年の作品。
オリヴェイラの作品は公開される度に気になっていたのだけれど、実際に見たのは今日が初めてだった。いかにも眠くなりそうな感じがしたのでこれまで足が伸びなかったのだ。彼が80年代に撮った6時間を超える大作、クローデル原作の『繻子の靴』はいつか見てみたいのだけれど。
『春の劇』は日本初公開だそうだ。フィルムセンターの企画である「ポルトガル映画祭2010」の上映作品の一つ。映画祭のパンフを見てこの作品が「16世紀に書かれたテキストに基づいてサンソンクラリャで上演されるキリスト受難劇の記録」であることを知り、是が非でも見にいこうと思った。
15、6世紀にはフランスで聖史劇(ミステール)と呼ばれる聖書の記述を題材とした芝居が盛んに制作・上演された。上演が数日間に及ぶ長大な作品が多いのだが、その題材のなかでももっとも人気があったのがキリストの受難の場面を描く受難劇だ。イギリスでも似たような題材の芝居がこの時代流行った。
英語でも仏語でもこの受難劇はPassionと呼ばれる。passionはラテン語のpassioを語源とし、patiorという動詞に由来する。patiorは「堪え忍ぶ」といった意味で、passionのもともとの意味は「苦難に耐えること、我慢すること」だった。これが「恋愛の苦しみ、苦悩」、さらに「恋の情熱」となったのは近代以降のことだ。
話を戻す。フランスではこの聖史劇は町の住民たち全員が参加するある種の大規模なお祭りでもあった。プロの役者もいたが、中心となるのは町の住民。住民たちが舞台を作り、衣裳を身につけ、役柄を演じた。猥雑な場面も多く含み、聖書解釈の面でも問題があったため、教会はこの聖史劇の上演に圧力をかけた。16世紀半ばぐらいから聖史劇はフランスでは徐々に上演されなくなり、17世紀には途絶えてしまう。
さてオリヴェイラの作品のポルトガル山村の受難劇は、英仏で上演された16世紀のテキストが元になっているという。ヨーロッパの演劇伝統は、古い様式が残り新しい様式と併存する日本の演劇史とは異なり、新しい様式が出ると古い様式が駆逐され廃れてしまうのが普通だという。またヨーロッパ各地で行われている伝統的な民俗行事の多くはせいぜい19世紀半ばくらいまでしか遡ることができないのが普通という記述も読んだことがある。多くの民俗行事は長い断絶のあと、19世紀半ばのロマン主義の時代に人為的に再生したものだとか。だからオリヴェイラ作品のこの村の受難劇が、16世紀から延々と現代まで復活祭のときに演じ続けられてきたというのはちょっと信じられない気もする。しかしいずれにせよ中世劇を研究している私にとっては非常に興味深い題材だ。
登場人物は村人たちで受難劇を演じるのも村人たちではあるが、復活祭での劇上演の様子を撮影したドキュメンタリーではなかった。村の祭風俗を記録するのではなく、そこで演じられているという受難劇をカメラの前で再構成して再現するといった作品だった。村人たちは仮設舞台ではなく、おそらく村はずれにある丘で主にキリスト受難劇を演じる。
恒例の受難劇上演の前の村人たちのちょっと高揚した感じの様子がまず映し出される。日常的なやりとりのなかで受難劇のことが話題になる。するとその日常場面に何の前触れもなく急に受難劇が始まるのだ。日常のなかにすっと自然に聖書の世界が滑り込むように。
最後の晩餐からイエスの受難、復活まで、福音書に書かれているエピソードがと展開する。台詞まわしは「たたーたんたたたたたーた」とリズミカルに一部の音節を伸ばし、節を付けた独特のもの。お経や呪文のように聞こえる。BGMも入れずに無造作に聖書のエピソードの断片がつなぎあわされ素朴な田舎の素人芝居が淡々と映し出される。台詞の節回しのお経じみていることもあり、単調で恐ろしく眠い。芝居が進行にするにつれ、村人たちの雰囲気が徐々に聖書の人物たちと一体化していく様子は興味深いが。このように全員で芝居に入り込むことでイエスの受難を追体験していき、自らにとりこんでいく過程がよくわかる。しかし眠い。何度か落ちそうになるのをがまんしていると、いきなり最後のほうで現実の戦争の映像、戦闘や爆撃、原爆投下のドキュメンタリー映像が流れる。エンディングが印象的だ。村の野外の床屋に画面が映る。村人の一人が戦争の危機を伝える新聞記事を読み上げ周りの人間に読み聞かせている。同じような場面が映画のまえのほうでも映し出されいたのを思い出す。すると髪を切らせていた男が急に立ち上がって受難劇のイエスの台詞を身振りと共に話しはじめる。これで幕。最後の台詞はうー忘れてしまった。
受難劇という再現された聖書の物語の虚構、そこで描かれる宗教的な真実、村人たちの日常、そして世界、こうしたモノ一切をまとめて提示する映画という枠組み、幾層かの虚構と現実がするりするりと互いに鑑賞し合い、侵入していく。虚構と現実の曖昧な境界を映画という手段を使って、トリッキーでありながらきわめて自然に表現するヘンな作品だった。見終わったあと思わず「うーん」とうなる。聖史劇たちを演じる共同体の人たちも聖書を演じることを通じてキリストと一体化する感動を味わった様子が伝わってくる映画だった。