早稲田大学文学学術院 演劇映像演習7 番外企画公演
- 作:阿藤智惠
- 演出:天野峻(ハイブリッドハイジ座)
- 出演:羊(ハイブリッドハイジ座)、近藤瑞季
- 舞台監督:里見真梨乃(ハイブリッドハイジ座)
- 美術:川村文香(ケベック/ハイブリッドハイジ座)
- 照明:小川暁
- 音響:森田和人
- 劇場:早稲田大学戸山キャパス 演劇映像実習室
- 上演時間:30分
- 評価:☆☆☆★
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
早稲田大学文化構想学部の戯曲講読の演習クラスの授業番外公演、阿藤智恵作《曼珠沙華》を観に行った。文学部助教、間瀬幸江氏が担当する演習では戯曲を読み込み、それを学生がテーマを設定してグループ毎に討論、発表をしている。昨年、私は何回かこのセミネールを聴講させて貰った。
この前の秋に、Pカンパニーが阿藤智恵作《曼珠沙華》を上演して、それを見て大きな感銘を受けた講師が演習でこの戯曲を取り上げた。すると演劇活動を行っている学生を中心に急遽、学内で公演が行われることになったとのこと。大学の戯曲読解のセミネールからこうした公演に発展するというのはなかなかあることではないように思う。
登場人物は二人。場所は野外のようだがどこだかはっきりしない。二人の名前はPとJだが、この二人の関係もよくわかない。Jが舞台上で佇んでいると、そこにPがやって来て、二人は食事を取る。その食事中の雑談が芝居になっている。雑談が終わると、Pは立ち去り、Jは一人舞台に残される。展開はそれだけである。
Jはそこにやってくる道角で見た群生する曼珠沙華の話を何回も繰り返す。Pはどちらかというと聞き役だ。彼はやさしくJの言葉を受けとめるのだが、彼らの会話はどこかちぐはぐでかみあっていない。この微妙なズレは結局解消されない。二人はかみ合わない会話を互いに優しく受け入れ合っているように見える。激することなく、ふたりは静かに語り合う。舞台の背景と床は白い布で覆われている。演者(女性だった)二人の服装も白い。曼珠沙華は彼岸花であり、死者を暗示する。群生する曼珠沙華のイメージは、大量の人の死を暗示し、またそういったことが語られる。三月の震災の被害者がそこには重ねられているようだ。
静かでストイックな芝居だった。『ゴドーを待ちながら』を連想する。正直、見ているあいだは、その単調さと静けさに退屈を感じていた。どこかで耳にしたことがあるような内面的なつぶやきのような繊細な対話がえんえんと続く芝居である。しかし最後の場面は「あっ」と声を心のなかであげたほど印象的で美しかった。舞台上で残されたJが、ゆっくりと優雅に床に寝転がり、眠りにつく。
昨年の三月以降、震災に反応して作られた演劇作品をいくつか見たが、いずれも私は見ていて居心地の悪さを感じる。まず震災に対して反射的に反応し、それを演劇という表現形式に変換していくことの正当性について考えてしまう。作品のなかに私は素直に入れない。またそうした演劇表現によって、震災に対する混沌とした未整理の感情が、整理され、誘導されてしまうことに抵抗を感じてしまう。こんな間接的表現を通して震災を感じることで、私は震災について何か考えた気になっていいのだろうか、などと思ってしまう。東北の地震についても、私の故郷の神戸が被害にあった阪神・淡路大震災についてさえ、私にとってはそれはよそごとのような感覚しか持てないし、またそうした関わり方しかしていない。私は当事者ではなく、傍観者だ。正直なところ、震災での被害が特権的にとりあげられ、語られることはそのインパクトからして当然のことだとは認めつつも、私の身の回りに起こるごく日常的でありふれた個々の不幸、不運に比べ、少なくともその被害の当事者ではない私にとって、特別なものであると捉えることは不誠実であるようにさえ思える。
後ろめたい気持ちはあるけれども、このよそごと感覚はどうにも否定できない。だから自分は震災については、ずっと宙ぶらりんで、判断保留の状態に置くのが、よいように感じている。