教会演劇
- 『カチコミ訴え』(太宰治) c/w「女の決闘」(H.オイレンブルク)
- 2019年8月23日(金)20:00-21:30 麻布霞町教会
- 1000円+投げ銭
- 出演:アンジー、栗栖のあ、おいかわ、さいとうれいな; 平林知河牧師(講話)
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のあんじー(アンジー×栗栖のあ)の『駆込み訴え』は、二週間前の8月4日に千葉屏風ヶ浦で野外公演が行われている。この公演では二人はロリータ・ファッションでこの作品を上演した。残念ながら私は見に行くことができなかったのだが、ツィッター上の報告で確認した灼熱の海岸で奇矯なメイクとロリータ・ドレスで演じる二人のビジュアルはインパクトがあった。
今回の公演はもともとは厨房ごとレンタルする食堂を会場にした夕食演劇として予告されていたが、どういう経緯があったのかわからないが、プロテスタントの教会を会場とする教会演劇として牧師の説教付きで上演されることになった。
『駆込み訴え』は十二使徒のひとり、ユダが師であるイエスを告発する一人語りだ。ユダは語らずにはいられない、彼がイエスに対して抱く激しい愛憎のすべてを。ユダは語りのなかで、どうにもコントロールできないイエスへの感情の強さに悶え苦しみ、そして陶酔する。
福音書を題材とする小説なので、教会で上演するのはふさわしい作品かもしれない。上演中、ユダを演じる俳優の視線はときおり教会正面に掲げられた十字架に向けられた。教会内で演じることで、ユダの倒錯はより効果的に提示される。ユダは告発しながら、イエスの視線を意識せざるをえない。
しかしイエスと弟子たちというホモソーシャルな集団のなかでの師への同性愛的ともいえる愛情を激しく吐露する太宰の『駆込み訴え』は、教会的には許容されうるものだろうか。
そして原作ではユダのモノローグである作品は、今回の上演では二人の若い女性によって演じられる。
麻生霞町教会での『駆込み訴え』上演では、オイレンブルク作・森鴎外訳の短編小説『女の決闘』がそのなかに組み込まれた。鴎外訳の『女の決闘』は、人妻が夫の不倫相手の女子学生と拳銃での決闘を行う話である。この短い小説にコメントを挿入した解説小説を太宰は出していて、『女の決闘』を表題とする短編集を1940年(昭和15年)に出している。この短編小説集『女の決闘』に「駆込み訴え」は所収されている。
平原演劇祭で高野竜はこのような複数の作品の融合をしばしば行う。『女の決闘』はのあんじーとは別の二人の女優(おいかわ、さいとうれいな)によって演じられた。
開演は20時だった。15分ほど前に会場に入ると20人ほどの観客がいた。直前まで上演場所、日時がはっきりせず、広報が不十分であったわりには、多くの観客が集まった。入場料は1000円+カンパで終演後に集められた。
今回出演する4人の女優はすべてこの3月に高校を卒業したばかりだと言う。女優4名は上演前に会場内に姿を晒していたが、そのなかでアンジーとおいかわのビジュアル・インパクトはすでにこの教会空間で異彩を放っていた。二人共かなり太めで大柄の女性だ。深夜の郊外のドン・キホーテ店内をウロウロしていそうなオーラを放っている。アンジーはピンク色に染めた髪で「ズベ公」的なのっそりとした迫力を発散している。おいかわは刈り上げの金色に染めた短髪で顔には多数のぴあすが。鋭い視線が印象的な彼女の風貌は80年代後半のイギリスのテクノ・ポップ・デュオ、ヤズーのアリソン・モイエを連想させた。彼女たちの雰囲気はいかにも教会にはそぐわない。
最初はおいかわによる『女の決闘』から始まった。さきほど確認したのだが、鴎外訳の『女の決闘』のおそらく最後の部分、女学生を決闘で殺害した人妻から牧師にあててかいた手紙が教会の説教壇から読み上げられた。明瞭な発声での朗読だったが、いきなり鴎外訳で宗教的懺悔といってもいいような内容のテクストを読み上げられても内容が頭に入ってこない。金髪短髪のピアスだらけの疑似アリソン・モイエがそのようなテクストを教会で読み上げる。ミスマッチ感がすごい。
『駆込み訴え』は、ユダの台詞がピンク髪のズベ公アンジーと長身、黒髪ロングののあにルーズに振り分けられている。彼らはイエスを組長とするヤクザの組の舎弟という設定だ。そういえばつかこうへい原作の映画で『二代目はクリスチャン』というのがあったことを思い出す。ホモソーシャルな疑似家族ということで、イエスと十二使徒の進行集団をヤクザの親分とその舎弟たちという関係になぞらえるという発想はわからないではない。アンジーとのあの二人はイエスの教団のパロディであるヤクザ組織のパロディを実にうまく表現していた。あとで聞くと演出の高野竜からは教会版『駆込み訴え』は「任侠もの風に」という指示があったそうだ。
それで背広にさらしという「一世風靡セピア」風衣装に。あとはイタリアン・マフィアのアル・カポネを意識した葉巻。とにかく18歳の若い女優が想像力を駆使して「ヤクザ」っぽい紛いものの役柄を作ってみた感じだ。その紛いものヤクザの大胆で開き直った嘘っぽさがおかしい。太宰のオリジナルのテクストと自由な翻案とそしてその場ののりで発展させたアドリブを織り交ぜながら、イエスに激しく恋い焦がれつつ、その思いを屈折したやり方でしか表明できないユダの悶えを、漫才のようなやりとりのなかで表現していく。
これも後でわかったことだが、アンジーは太宰治の大ファンでのあは敬虔なクリスチャンとのこと。アンジーは役柄に入り込み、どんどん調子に乗っていく感じがわかる。しかし調子に乗っていながらも、それがもたらす効果はしっかりと計算していることが伝わってくる。見た目に反して、実は繊細でクレバーな演技だ。のははヤクザ芝居のなかにも生来の生真面目さが見え隠れする。しかしその生真面目さは、この『カチコミ訴え』をプロテスタント教会で牧師説教付きで上演してしまうというズレへと結びついてしまう。見に来た観客に『駆込み訴え』のエピソードの該当部分を付箋で示した聖書を配布するという真面目さ。彼女は太宰のこの小説をキリスト者として真摯に読み込んでいったのだ。そしてその結果がヤクザ芝居の少女二人による福音書劇。
中世の受難聖史劇が福音書を題材としつつも、奇想天外なトンデモ・スペクタクルに変容していったのを連想させる。
この二人の掛け合い漫才的な『駆込み訴え(カチコミ訴え)』に『女の決闘』の決闘場面が強引に押し込まれる。おもちゃのピストルを使った派手で無意味な決闘シーンに大いに笑う。
これらのデフォルメにもかかわらず平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』は、確かにまっとうな『駆込み訴え』であり、太宰治を深く愛するアンジーと敬虔なクリスチャンたるのあのの太宰理解、福音書理解を反映した内容になっていた。
『駆込み訴え』を演劇としてやるとなると、俳優一人が必死の形相でひたすら真面目に情感をこめてテクストを語る(それだけでも十分に面白いのだが)『駆込み訴え』しか思い描くことができていなかった私には、平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』は実に痛快で新鮮だった。
『カチコミ訴え』のあと、平林知河牧師によるガチの説教が続いた。普段と違い、信者でもない人を前にこうした宗教的講話を行うのは、さぞかし戸惑ったに違いない。しかも上演された『カチコミ訴え』は、牧師が想像していた『駆込み訴え』とは相当異なるものだった。牧師の話はなぜユダの罪はこれほど厳しくイエスに批判されたのかということだった。ユダがイエスの愛を信じ切ることができなかったことが、大きな罪だった、というような話をされた。
講話終了後、平林牧師に「それにしても『生まれてこなければよかった』というイエスの言葉はあまりに厳しく感じられます。太宰治のユダや遠藤周作のユダは、この福音書のイエスの言葉を思うと、すごく甘く、ユダ贔屓に思えるのですが、牧師はどう思われますか?」と聞いた。牧師は「私は遠藤周作はあまり好きではありません。でも太宰治のユダ像は遠藤よりも共感できます。太宰はキリスト教をとてもよく研究していると思います」とお答えになった。
平原演劇祭『カチコミ訴え』でユダ役のひとり、アンジーと。このふてぶてしさ、調子に乗って暴走している感じが最高だった。自分が引き受ける役柄をきっちりイメージして演じていることが伝わってきた。