閑人手帖

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姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』文藝春秋、2018年。

 

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

心がザラザラとするような後味の悪い小説だった。2016年に起こった東大生5人による女子大生への強制猥褻事件を取材した小説である。この小説に関心を持ったきっかけは、2018年12月に東大で行われた作者の姫野カオルコをパネリストに含むブックトーク・イベントの記事を読んだことだ。このブックトーク・イベントでは、東大教授でジェンダー論を専門とする瀬地山角が小説内記述と事実の違いを指摘することでこの小説を批判したことで、かなり紛糾したそうだ。その様子は東大新聞オンラインに詳しく報告されている。
 
小説のプロローグでまず伝えられていることだが、この小説は「東大生5人による女子大生への強制猥褻事件」をセンセーショナルな筆致で描写するものではない。全四章437ページのうち、三章までの333ページは事件の前史に当てられている。三章までは事件の当事者となる女子大生と東大大学院生の恋愛に関わる生活史を、彼らの高校時代から丹念に、緻密に記述しているのだ。そして事件について書かれてある第四章は、事件当日の生々しく、おぞましい描写が前半、その後日譚が後半という構成になっている。
 
作者の姫野が事件の当事者に与えたライフストーリーのディテイルに驚嘆する。作者がこの小説を書く動機となったのは、事件後の被害者となった女子大生へのバッシングだと言う。Twitterや匿名掲示板にこの被害者を誹謗するような書き込みが多数あった。「世に勘違い女どものいるかぎり、ヤリサーは不滅です」「被害者の女、勘違いしていたことを反省する機会を与えてもらったと思うべき」等々。
姫野は被害者女子大生をごく普通の女子大生として造形する。「東大生というブランドに憧れ、積極的に接近していく浅はかで性的に奔放な女子大生」ではなく。
作者が描いた平凡な、そして「標準的な」女子大生とはどのようなものか。都市近郊の住宅地に住む。庶民的で仲のいい家族のなかで育つ。小中高は地元の公立の学校に通い、中学から私立や「付属」の学校に進学する人たちは「自分とはちがう」人たちと認識している。生活態度はまじめで、よくない遊びも覚えず、おっとりとすごしている。異性から積極的にアプローチされるような美貌も持っているわけではないが、公立の共学では男子たちとはクラスメイトとして仲良くつきあってきた。メディアなどを通して流布している女子大生のステレオタイプは、ある種の先鋭的でひと目につくタイプの女子大生像に基づき形成されているものだと考えたほうがいいかもしれない。標準的な多数派の姿というものは案外その外部には可視化されないものだ。
 
こうした女子大生は実際には山ほどいるのだろう。『彼女は頭が悪いから』はこのような普通の女子大生が、どのような経緯であのおぞましくセンセーショナルで特異な事件にまきこまれるようになったのかという経緯を、彼女の高校時代から順々にその恋愛体験を追うことによって丁寧に描き出している。その恋愛体験は、華やかさとは無縁のごく慎ましく、微笑ましいものだ。
 
実は私は『彼女は頭が悪いから』を読みつつ、自分がこのようは「普通の」女子大生がどのような生活を送り、どのようなことを考えてきたなど、これまで彼女の立場にたって思い浮かべたことがないことに気づいた。
『彼女は頭が悪いから』の138ページの記述に、以下のようにある。
 
「日常生活に男子がいる。幼稚園から高校まで、例外なく、男は女を分類する。「かわいい子とそうでない子に」。「かわいい子とぶさいくな子」という分類ではない。「かわいい子」ではない子は全員、「そうでない子」だ(…)だが共学というところは「そうでない子」と判定されても、その学校がよほど荒れた環境でないかぎり、いじめられるわけでもなく、男子から冷たい仕打ちにあうわけでもないのである(…)むしろ「そうでない子」のほうが、男子と仲良くなるケースが多々ある。互いに構えず交流が積み重なるからだ」
 
『彼女は頭が悪いから』の主人公のひとりである美咲についての記述を読んで、私はおそらくちまたの女子大生の多くがそうであろうところの普通の子、「そうでない子」というのはどのような女の子であるのかを私ははじめて思い浮かべることができるようになったのだ。そもそもそういた子がどんな内面を持っているのか、どんな生活を送ってきたのかということに対して私は関心を持ったことがなかった。考えてみれば自分は恋愛対象としてはいわゆる「かわいい子」にしか関心がなかったし、その恋愛感情も相手に自己の願望を投影するという一方的なものでしかなかったような気がする。日常的な交流のなかで自然に親愛を深めていき、それが恋愛関係につながるという「健全」な付き合いというのをしたことがないのだ。私の恋愛経験はいびつでかつ貧しい。
  
『彼女は頭が悪いから』では美咲という標準的な若い日本人女性が、どういうきっかけとプロセスで恋愛を経験していくのかが丁寧に描かれてる。それは私にとってはこれまで関心の外になったことがらであり、未知の情報であったので、非常に興味深く読んだ。
 
強制わいせつ事件の加害者の一人であり、被害者の元恋人でもある東大大学院生のつばさのライフヒストリーもまた緻密に書き込まれている。父親は官僚で、母親は専業主婦。広尾の国家公務員宿舎に住む。兄は中高一貫の男子校から東大文1に進んだ。つばさはその兄に反発を感じ、中学は敢えて公立を選ぶ。高校は生徒全員が東大をめざすような教育大付属の進学校に進み、東大では理1に進学した。つばさ以外に事件に関与した東大生たちについてもかなり詳しく小説のなかでは書かれているのであるが、上記の東大で開催されたブックトークイベントのなかで、瀬地山角は東大生について書かれたディテイルについていくつもの事実誤認があり、それが小説のリアリティと説得力を奪っているといった趣旨の批判をしている。批判の要点をまとめると、小説のなかで「三鷹寮が広い」と書かれていた、小説のなかの東大生たちが挫折のない若者として描かれていた(実際には東大では優秀な者の集団にいるがゆえの挫折を抱えているものが圧倒的多数である)、そして理1の男子学生の大半は女性に縁遠く、つばさのようなプレイボーイを東大理1の代表例のように記述されているのは悪質なミスリードであるといったことになる。
 
小説を読み終えたあとで、上記の東大新聞オンラインにある瀬地山角の発言を読むと、彼の批判は小説のなかの東大生描写の枝葉末節についての難癖に過ぎないように思えてしまう。あの小説は、この事件で東大生である彼らがしたかったことは、私立女子大生である彼女、すなわち「偏差値の低い大学に通う生き物を、大嗤い」することであり、「彼らにあったのは、ただ『東大ではない人間を馬鹿にしたい欲』だけだった」を描いていて、それは『彼女は頭が悪いから』という小説のタイトルで明示されている。
 
あの強制わいせつ事件が起こったのは、いくつかの偶然が重なったからであり、彼らが意図・計画的にああしたふるまいを彼女にしたのだという解釈を、この小説の作者は取ってはいない。しかしこの小説の読後の後味が悪く、あの事件がことさら忌まわしく、おそぞましく感じられるのは、そのふるまいの背景に東大生という上層階層の人たちが、東大生でない人間たちに抱いている差別意識、彼ら傲慢で醜い特権意識が、小説のなかで執拗に緻密に暴露されているからである。東大の大学内で、あるいは東大にはいる前の進学校での経験で、東大生の多くが挫折と無縁ではないと言っても、日本における最難関の高等教育機関である東大の学生であることに自負心を持たない東大生は少ないだろう。東大以外の者に対して、そうした自らの優越性を誇示することがどのようなマイナスの印象をもたらすのかは(しばしば致命的ともいえる)、東大生の多くは熟知していて、実にスマートに対応する。しかしそうした賢明な東大生にしても、自分たちの言動の端々に、東大生以外の人間に対する侮蔑の感情、自己の優越への誇らしさがにじみ出ていることには、おそらく気づいていない。そしてそのエリート意識は、ときにグロテスクなかたちで無自覚に垂れ流されることも実際にあるのである。強制わいせつ事件はそれがもっとも極端なかたちであからさまになった事例であり、実は同じ性質の事がらは程度の差こそあれ、あまたあるに違いないのだ。
 
これは人間が差別をする生き物である以上どうしようもないところがある。いわんや経験の乏しい若者がついいい気になって若気の至りでやってしまうということはあるだろう。一対一の恋愛関係でも互いが同じレベルで同じように愛し合っているという例は、極めて稀もしくは錯覚であり、二人のあいだには何らかの権力関係が存在し、その権力関係を背景としたかけひきは常に行われているはずだ。
 
そういう意味でこの小説は、東大生というものをステレオタイプに押し込み、批判しているわけではない。私が『彼女は頭が悪いから』を読んで気づいたのは、まず自分自身の「普通の」女の子という他者への無関心である。もう一つは日本に現に存在する格差社会の現実であり、そこでの差別がどのようなものであるかということだ。東大生による女子大生への強制わいせつ事件は、われわれの社会に蔓延する他者への無関心、そして階層社会がもたらす歪みのおぞましさを、象徴するものだったのだ。