閑人手帖

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2018/12/13『コモン・グラウンド』@東京芸術劇場アトリエウエスト メモ書き

2018/12/13『コモン・グラウンド』@東京芸術劇場アトリエウエスト メモ書き
ヤエル・ロネン作『コモン・グラウンド』のリーディング公演で感じたことのメモ書き。
 
2月13日(木)19時30分/12月16日(日)14時
ユーゴスラビア紛争の加害者と被害者の共有地を探る
『コモン・グラウンド (Common Ground)』
作=ヤエル・ロネン&アンサンブルYael Ronen & Ensemble
翻訳=庭山由佳
演出=小山ゆうな(雷ストレンジャーズ)
出演=霜山多加志(雷ストレンジャーズ)、小林あや、蔵下穂波、松村良太(雷ストレンジャーズ)、野々山貴之(俳優座)、きっかわ佳代(テアトル・エコー)、マイ
音響=尾崎弘征
映像=神之門隆広
 

 

数年前に見たロネン作の『第三世代』のリーディング公演は鮮烈だった。ユダヤ人、ドイツ人、パレスチナ人(アラブ人)の三つのグループの若者がそれぞれの立場から率直にアラブ-ユダヤ-ドイツの加害と被害について語り合うという論争劇だ。オリジナル版ではユダヤ人、ドイツ人、アラブ人の俳優たちがそれぞれ当事者として、この論争劇の登場人物となった。
 
当事者性こそが焦点であるこの劇を、非当事者である日本人俳優が演じるのはもとより無理がある。しかしにもかかわらず『第三世代』のリーディング公演は、 アラブ-ユダヤ-ドイツの政治的緊張とは縁遠いところにある若い日本人俳優が演じていても面白かった。それはこの劇の枠組みのなかで、圧倒的な真実、身もふたもない本音の応酬があったように感じられたからだ。そしてその上演は、私たち日本人としても、まさに韓国、中国の俳優たちとこのような本音をぶつけあう演劇が必要ではないかと思わせるものだった。実際にはこの作品にあるような本音をぶつけあうような議論は、国家が抱えている政治的・歴史的問題については非常に難しい。いろいろな配慮、イデオロギーがわれわれが抱えている本音の追及と表明を妨げてしまう。
 
しかし演劇というかたちなら、そうしたあらゆる忖度をとりはずした生々しい討論が可能となる。そしてそうした討論のシミュレーションは、われわれと他国他民族のあいだに存在するさまざまなわだかまり、問題点を浮き彫りにしてくれるかもしれない、ということを『第三世代』のリーディング公演は感じさせるものだった。『第三世代』は11月にはリーディング公演と同じ中津留章仁演出で本公演も行われた。
さて『コモン・グラウンド』はベルリン在住の旧ユーゴ人たちが抱える問題を、ドイツ人、イスラエル人との討論を通して、明らかにしていくというものだ。当事者演劇としての作り方は、『第三世代』の方法を踏襲したものだ。この作品はドイツでは『第三世代』以上の成功を収めたという。私は大きな期待をもって『コモン・グラウンド』のリーディング公演に臨んだのだが、この公演は私にとっては期待外れのものだった。
 
そもそもなぜ『コモン・グラウンド』が『第三世代』を超える評価をドイツで得ることができたのかが私には不可解だ。作品としての出来は『第三世代』のほうがはるかに優れたものだと思った。『第三世代』ではアラブ-ユダヤ-ドイツという三つ巴の憎悪の緊張感に満ちた関係に基づくものだったが、それに比べると『コモン・グラウンド』で問題になっているのは、旧ユーゴ問題であり、ドイツ、イスラエルは直接の当事者とは言えない。イスラエル人とドイツ人は、ユーゴ人たちをつついて彼らの本音を引き出す役割だ。劇の核となる構造自体、『第三世代』と比べると弱い。旧ユーゴ内部には、1990年代を通じて続いた紛争をめぐる対立があり、ベルリン在住の旧ユーゴ人はそのわだかまりを抱えているわけだが、旧ユーゴの分裂状況があまりにも複雑で、しかも現在、セルビアマケドニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナなどに分離独立して、一応の平衡関係を得た直後であるがため、つまりあまりにもアクチュアルな問題であるためか、ベルリン在住旧ユーゴ人たちの言葉もあいまいで鋭さに欠ける。『第三世代』の各人物ような「本音」の応酬を回避しようとする心理が旧ユーゴ人にはあるのではないだろうか。
彼らが語るユーゴの問題は、どこかありきたりの紋切り型で、われわれが想像し、期待したような言葉であり、彼らの本音とは程遠いように私には感じられた。これが『コモン・グラウンド』が私にとってつまらなかった大きな理由である。
脚本の多くがせりふのやりとりではなく、「語り」であったことも、この作品を単調にしていた。完了・過去を「~た」とする日本語表現の羅列は必然的に散文的で単調・退屈なものになってしまう。
 
日本人の俳優たちは、原作の戯曲にある言葉をそのまま引き受けて語ることしかできない。原作戯曲の旧ユーゴ人たちのことばがあいまいで鋭い批評に欠けたものである以上、彼らを演じた日本人俳優の言葉もぼんやりとしたものになってしまう。
私は平均的な日本人よりも、ユーゴスラビアというか、バルカン半島の国々には関心を持っていると思う。私には旧ユーゴ地域に住む友人が数名いるからだ。旧ユーゴ地域はフランス語教育が盛んで、ニースで行われているフランス語教員向けの研修でバルカン半島出身の何名かのフランス語教員と私は親しくなった。バルカン出身の友人には、セルビア人、ボスニアヘルツェゴビナに住むセルビア人、マケドニア人、クロアチア人がいる。つい最近まで民族間で血で血を洗う紛争状態にあった国々だが、ニースの語学教育研修会場や研修中に滞在する寮で彼らはごく自然に交流し、談笑している。しかし彼らの間にわだかまりがないわけがないということは、しばらく付き合うとわかってくる。
 
セルビア人教員は私にこういうことを話したことがある。
「ミキオ、マケドニアは最近、首都にアレクサンダーの銅像を建てたんだ。あいつらは本当に愚かだよな」
彼女は普段はマケドニア人のフランス語教員と親しげに話していたのにこんなことを言う。
「アレクサンダーはマケドニア出身だから、別に銅像ぐらい建ててもいいんじゃないか?」
「ミキオ、何言っているんだ。アレクサンダーはギリシア人だ。今のマケドニア人はスラブ系だよ。なんのつながりもないギリシア人の英雄を自分たちの英雄みたいに扱って銅像建てたりするから、マケドニア人はバカなんだよ」
日本セリビア交流プロジェクトが、セルビアの現代劇を上演したことが数年前にあった。この公演を見た某演劇研究者が、「日本人俳優の身体がすさまじい内戦の修羅場を乗り越えたセルビア人を演じても説得力がない」と評していた。セルビア他、旧バルカンの国々が内戦によって被った壮絶な状況については、ぬるい平和的状況にあったわれわれ日本人には想像しがたいところもあるだろう。報道などで伝えらえたバルカンの状況は凄惨なものだった。
 
しかし内戦を経て、分離独立した旧バルカンの人々の姿は、少なくとも私が知る限りにおいて、そうした凄惨な状況を連想させるものではない。ニース研修では旧ソ連や東ヨーロッパの旧共産圏の国々の人たちとロシア人のあいだには明らかな溝があり、彼らは積極的に接触しようとはしない。しかし旧ユーゴの国々の人々の関係は一見もっと穏やかだ。しかしその穏健さが表面的なものであり、その裏側には様々な思いが交錯していることが、きわめて繊細な配慮を互いにしているらいしいことは、彼らと付き合いが少し深くなると見えてくる。
私が旧ユーゴの人々との関係で知ったそういう微妙な雰囲気を『コモン・グラウンド』の公演には感じ取ることができなかった。