【劇評】日本・セルビア演劇交流プロジェクト『バルカンのスパイ』
ギリシャの北方、バルカン半島の根元にあるセルビアの現代演劇作品が日本で上演される機会は極めてまれなことだ。戯曲が書かれたのは1982年。ユーゴスラビア連邦の終身大統領のチトーの死去が1980年で、この時期のユーゴスラビアは共産主義者同盟による一党独裁体制を維持しながらも、民族主義の台頭で連邦が崩壊へと向かっていた時期にあたる。この後、1990年代に入るとユーゴ紛争が勃発し、この地域は激しい戦火に包まれることになった。とある一家のダイニングで展開する『バルカンのスパイ』は、共産主義独裁支配の末期の混乱した世相とそれに翻弄される庶民の悲劇が、辛辣な風刺的笑いとともに描き出されている重い喜劇だった。
『バルカンのスパイ』の作者のコバチェビッチは、セルビアを代表する劇作家の一人であるとして戯曲の執筆だけでなく、自前の劇場を所有し、演出家としても活動している。コバチェビッチは1995年に公開され、カンヌ映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した『アンダーグラウンド』(監督:エミール・クストリッツァ)の脚本家として知られている。私は日本での公開時にこの映画を見た。ナチス支配下のユーゴスラビアで地下生活を送った共産党パルチザンたちが、第二次世界大戦終了後もその事実を知らされず地下で生活し、武器製造を延々と続けていく。彼らが数十年ぶりに地上に現れたとき、祖国は民族紛争のただなかにあった。壮大なスケールで虚構現代史を描き出す、風刺精神に満ちた痛快な作品だった。『アンダーグラウンド』も映画より前に舞台作品として上演されていたそうだ。 『バルカンのスパイ』も舞台上演のあと、脚本家自身の手で1984年に映画化されている。
赤くて厚みのあるオペラカーテン風の縁取りで囲まれたクラシカルな額縁舞台の向こう側に、灰色がかった青と青を基調としたくすんだ色合いのダイニングのセットが、間口の広い舞台に設置されている。開演前には、背景にユーゴ問題がらみのニュース映像が映し出されていた。ダイニングは古ぼけていて薄暗いけれども、手入れが行き届いた感じだ。下手側に外に出るドア、上手側に下宿人(清藤昌幸)の部屋へのドアがある。
物語はこの一家の主、イリヤ(田中徹)を核に展開する。スターリン主義者でかつて政治犯として二年間、投獄されていたことのあるイリヤが警察に事情聴取のために呼び出された。冒頭の場面は彼の事情聴取の場面が無言劇で再現される。警察でイリヤは、彼の家の下宿人について質問される。この呼び出しにイリヤは大きなショックを受けた。イリヤが投獄されていたのは数十年前の話だ。その後、彼は実直な労働者として過ごし、妻ダニツァ(チェヘミ)と娘ソーニャ(東ヶ崎恵美)と裕福ではないが幸せな家庭を築いていた。しかし共産主義社会に生きる彼には本当の心の平安はなかったのかもしれない。その静かな生活のなかでも、常に当局から監視されているような不安におびえ、ストレスをひそかに蓄積していたのだろう。警察での事情聴取は彼の精神のバランスを崩す引き金となった。彼は下宿人をスパイだと信じ込む。そしてそのスパイ妄想は急速に膨れ上がり、彼の精神を支配してしまう。最初は夫のスパイ妄想に半信半疑だった妻も、次第に夫の妄想に取り込まれ、正常な判断を失う。父親の異常性を指摘した娘は家を追い出されてしまった。イリヤの弟ジェーラ(服部晃大)は兄の妄想に同調し、狂気の世界をさらにエスカレートさせていく。イリヤとジェーラは下宿人に暴行を加え、家のなかに監禁する。イリヤの狂気の暴走が頂点に達したところで、持病の心臓発作が彼を襲う。狂気のなかでイリヤはもだえ苦しみながら死んでいく。
当日パンフレットでの紹介では俳優たちがスタニスラフスキー・システムを体系的に学んでいることが強調されている。心理的写実主義に基づくスタニスラフスキーの演劇理論は、少なくとも今の東京の小劇場シーンではほとんど省みられていない。ちょうどこのころ、スタニスラフスキーの『俳優修業』を取り上げたとある読書会に私は参加していて、このシステムの可能性を再検討してみたいと考えていたことも、私がこの公演を見に行こうと思った動機のひとつだった。『バルカンのスパイ』の出演俳優の演技は、スタニスラフスキー美学の対極にある現代口語演劇的な硬質で乾いたリアリズムとは当然異なった雰囲気を持っている。そしてスタニスラフスキー・システムを基盤として独自の演技様式を発展させた新劇のスタイルとも異なったものだった。
海外の戯曲を日本人俳優が演じる場合、どうしても日本人俳優の身体では消化しきれない違和感が残る。もとより舞台表現は現実の人間の振舞いをそのまま模倣したものではあり得ない。舞台上から観客に向かって声を届けなくてはならないという物理的条件をクリアしなくてはならないほか、台詞のやりとりを通して劇行為を進めなくてはならない劇作術上の条件もあるからだ。リアリズムの演劇作品でも、観客は前提とされるいくつもの暗黙裏の約束事を受け入れた上で、舞台上で再現された虚構をリアルなものとして認識する。
海外戯曲の翻訳劇の場合、言語表現上の習慣の違い、日常的身体表現(身振り)の違いを、日本人の身体を通して乗り越えなくてはならないのだから、リアリズムの芝居とはいえ必然的に、例えばフランス人俳優がフランス語の戯曲を演じるのと同じように同じ作品を写実的に表現することができない。フランス人であれば日常的でありふれた言語・身体表現が、日本人が日本語でやると不自然で修辞的な表現になってしまうような例はいくらでもあるだろう。海外戯曲はその国の俳優が、戯曲が書かれた原語で上演したほうがさまになってしまうのはどうしようもないことだ。こうしたずれこそが翻訳劇の魅力になっている部分もあるのだが、そのずれが俳優・演出で乗り越えられない場合も少なくない。もちろんこれは表現を受け入れる観客の受容の問題でもある。
『バルカンのスパイ』の俳優たちは、しかしセルビアの人物を、自信をもって堂々と役柄を演じているように見えた。日本人が外国人を演じているときにつきものの居心地の悪さは彼らの演技には感じることはなかった。俳優たちの演技ははっきりとした輪郭を持ち、発声、動き、表情に迷いがない。俳優の動きはダイナミックで力強く、日本人俳優らしくない強靭さが感じられる。俳優たちの身体は、ばねが体内にしこまれているように、言葉や状況に機敏に反応しながら、優雅に動きの連鎖を形作っていく。かなり間口の広い舞台上を俳優たちは、大きな動作を伴いながら、たえず動き回っているのだが、その動きには端正な秩序があり、台詞にパントマイムでの説明を重ねるようなうるささを感じない。複数の俳優のあいだのリアクションの連係は音楽のハーモニー、アンサンブルを連想させるような美しさがあった。緻密な稽古によって俳優がしっかり訓練され、舞台上の移動、動作、どこに向かって話すかなどが細部まで計算されて、身についていることを窺うことができた。
主人公のイリヤ役の俳優(田中徹)にかかる負荷は相当なものだ。イリヤはスパイ妄想に囚われた狂人である。冒頭からハイテンションなイリヤの言動は、狂騒的でエネルギーに満ちている。イリヤは常に落ち尽きなく舞台空間を動き回り、オーバーアクションとともに大声で怒鳴り散らす。作品の上演時間は休憩10分を入れて、2時間40分あった。ほとんどの場を支配するイリヤのエキセントリックな言動は、時間がたつにつれどんどんエスカレートしていき、圧力を増していく。後半になると、さすがに俳優の声や動きに疲れがみえはじめる。しかし物語の展開は容赦なく、役柄であるイリヤとこの役を演じる俳優を苛み続け、彼を正真正銘の疲労困憊の状態へと追い込んでいく。壮絶で苛酷な脚本であり、演出だった。
イリヤはこの公演では関西弁の台詞を話した。登場人物のなかで関西弁を話すのはイリヤだけである。翻訳劇で方言を使う場合、たいていそれはその登場人物が田舎出身であるとことを示す記号として用いられるが、『バルカンのスパイ』では、劇作上の状況でイリヤが方言を話さなければならない必然性はない。この作品では関西弁は、「田舎者」であることを示す記号ではない。それではなぜイリヤの台詞として関西弁を採用したのか? イリヤ役の田中徹は関西人なので関西弁の台詞のほうが制御しやすいというのはあると思うが、これは関西弁を採用した本質的な理由ではないだろう。最初、関西弁でイリヤが話しはじめたときには違和感を覚えた。イリヤの関西弁はその異質性ゆえにイリヤの存在を特異なものとして印象付ける効果を持つ。
俳優たちのやりとりは緊密で、そのみごとな連係には流れるようなリズムがある。ソリッドで密度の高い演技が作り出すどっしりとした重量感には、観客を舞台の事件に没頭させる強い吸引力があったが、同時にその息苦しさゆえに観客に忍耐を強いる作品でもあった。脚本自体がそもそも重いのだ。膨大な言葉のやりとりのなかで、イリヤの狂気が増幅し、それに周囲の人間がまきこまれていくのだが、状況は徐々にゆっくりとしか変化せず、展開は停滞していて、同じようなパターンが繰り返される。この執拗さは作者のコバチェビッチの特徴、魅力のひとつだろうし、もしかすると東欧の観客は日本の観客よりこうした執拗さへの耐性が強いのかもしれない(これまで私が見た何本かの東欧、ロシアの映画の印象から想像しているに過ぎないのだが)。共産主義体制の監視社会が一個人にもたらした悲劇状況を風刺的に表現する手段として、観客をいらつかせ、疲労させるこうしたやり方は確かに有効なものかもしれない。しかし劇行為の停滞と演技の圧迫感ゆえに、本来なら笑いがあってしかるべきの喜劇的やりとりの場面でも、笑いが起こらない。適度な隙間が展開のなかにないと、観客は笑う余裕を失ってしまう。
各場のあいだに流れる民族音楽風のポップス(おそらくセルビアの音楽だと思うが)の選曲が面白かった。牧歌的で陽気な曲調が、舞台上の状況のグロテスクさを増幅させていた。音響のバランスも絶妙だった。最後のイリヤ狂乱の場面で、ダイニングのセットがばらばらと解体し、崩壊していくというアイディアが素晴らしい。写実的空間が、イリヤの精神の崩壊の瞬間に、一瞬で象徴主義的空間へと変貌していくスペクタクルは圧巻だった。
遠く離れた東欧の国が共産主義体制だったころに書かれた風刺劇だが、この作品で描かれる状況は、当日パンフレットで演出家の杉山が書いているように、家族、会社、組織、国などあらゆるところで起こりうる普遍的な状況だ。強力なエネルギーを持つ一人の狂人が権力を握ってしまうと、その暴走を食い止めることはきわめて面倒で困難だ。食い止めるどころかその狂気に周囲の人間たちが引きずり回され、間違った判断が修正されることのまま、破滅的状況まで突き進むような事態は珍しいことではない。スパイ妄想にとらわれ、正気を失ったイリヤの姿は、秘密保護法が制定・施行され、全体主義的な雰囲気が漂うようになった現在の日本に住むわれわれ自身の戯画となる可能性も十分にある。
〜日本・セルビア演劇交流プロジェクト〜 Project of the theatrical exchange between Japan and Serbia
『バルカンのスパイ』 Balkanski špijun
- 【作:Author】ドゥシャン・コバチェビッチ Dušan Kovačević
- 【翻訳:Translation】亀田和明 Kazuaki Kameda
- 【演出:Director】杉山剛志( 演劇集団「ア・ラ・プラス」)Tsuyoshi Sugiyama (Theater Company “A La Place”)
- 【出演:Cast】田中徹 Tetsu Tanaka、チェヘミ(演劇集団「ア・ラ・プラス」)Hemi Che、東ヶ崎恵美(舞夢プロ) Emi Togasaki、服部晃大 Akihiro Hattori、清藤昌幸 Masayuki Kiyofuji
- 【美術:Set Designer】加藤ちか Chika Kato
- 【照明:Lighting Designer】篠木一吉((有) 創光房 )Kazuyoshi Shinoki
- 【音響:Music Designer】仙浪昌弥 Masaya Sennami
- 【舞台監督:Stage Managers】吉田誠 古館裕司 Makoto Yoshida , Hiroshi Furudate
- 【衣装:Costume designer】杉野明善 Akiyoshi Sugino
- 【舞台部/出演:Assistant Stage Managers and Performers】 友野翔太 矢部久美子 山田隆史 亀田和明 Shota Tomono Kumiko Yabe Takashi Yamada Kazuaki Kameda
- 【写真・映像:Photo/Video】内田誠 Makoto Uchida, Yann Moreau , Jaja
- 【宣伝美術:Flyer designer】ミツヤスカナ Kana Mitsuyasu
- 【制作:Manager】高橋俊也(theatre-theater)Toshiya Takahashi
- 【プロデュース:Organization】宗重博之+演劇集団「ア・ラ・プラス」 Hiroyuki Muneshige + Theater Company “A La Place”
- 【共催:Co-sponsored】壁なき演劇センター Theater Center Without Walls
- 【後援:Sponsor】セルビア共和国大使館 Embassy of the Republic of Serbia in Japan
- 【公演日時】11月21日(金)19:00、11月22日(土)14:00/19:00、11月23日(日)14:00(当日の受付は、開演の1時間前、開場は開演の30分前)
- 【チケット】前売:3,500円 当日:4,000円 学生:2,500円 (全席自由・日時指定)
(2014年11月22日(土)19時の回を観劇)
評価:☆☆☆☆