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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

練馬区立石神井東中学演劇部『空の村号』

演劇

平成25年度第64回東京都中学校連合演劇発表会

練馬区石神井東中学 演劇部

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  • 作:篠原久美子
  • 潤色:石神井東中学演劇部・田代卓
  • 指導:田代卓、新野美紀、木村寿美(外部指導員)
  • 会場:下丸子大田区民プラザ 大ホール
  • 上演時間:45分
  • 評価:☆☆☆☆★

 『空の村号』はもともとは日本児童・青少年演劇劇団共同組合が行った「震災後の児童・青少年演劇を考える」というプロジェクトのために、劇作家の篠原久美子が書いた朗読劇だ。石神井東中学演劇部はこの朗読劇を、複数の俳優による通常の舞台劇のかたちに潤色した。またオリジナルでは70分だった上演時間は、中学演劇としての上演のため45分に圧縮されている。

 震災そして福島原発事故に関わる演劇作品を2011年3月11日以降、私はいくつか見てきた。海外では「フクシマ」は日本の現在を語るうえで最重要なキーワードであり、海外で活動する日本人芸術家はこのキーワードについての見解を求められる。

 

 作品の舞台は福島第一原発から数十キロ離れたところにあるとある村である。この村で農作物栽培と家畜の飼育を行う農家の小学5年生、空君がこの作品の主人公だ。明朗活発だが面倒くさがり屋の空の将来の夢は映画監督になることだ。なぜなら映画監督なら他の人に面倒臭いことは任せてお金持ちになることができると空は信じこんだからである。空は思慮の浅いちょっとバカな少年でもあった。

 2011年3月11日、東北大震災で福島第一原発事故が発生した。福島は世界のメディアの注目の的になり、多数のジャーナリストたちが福島にやってきた。空たちの村にもひとりの映画監督がやってきた。彼は空が思っていた映画監督とは違っていた。彼はドキュメンタリー映画の監督であり、原発事故後の福島の状況をリアルに伝える映像を撮影するためにこの地を訪問したのだった。村の人々は、政府、ジャーナリスト、学者たちが伝える情報に振り回され混乱している。苦しみ悩む村人たちの現実を撮影するドキュメンタリー映画は、空が考えていた映画とは違ったものだった。空が望む映画は、アニメやマンガの世界のように、善良な村人たちが苦しんでいると、ヒーローが現れ、悪人や組織をやっつけてくれるような爽快なフィクションだった。空は村がヒーローの活躍によって苦しみから解放される映画を思い描く。宇宙海賊船スペース・ソラに乗り込んだ乗員たちは、放射能除去装置を求め宇宙の彼方へと旅立つ。そして放射能兵器によって地球征服を目論む悪の宇宙人を打ち倒す。しかしその空想のなかにも、放射能物質の脅威の元で不安におののく村の現実が侵入してきてしまう。

 国の指示で村人たちは村から出て避難することになった。村の人たちはそれぞれの身寄りを頼ってバラバラに生活することになる。空は妹の海とともに東京の祖父母のところに身を寄せることになった。空の父母は子供を送り出したあと、しばらく村に留まる。空と海の出発の日、海からの強い風が村に吹き付けていた。それまでずっと舞台背景を覆い隠していた黒幕が開かれ、背景のホリゾント幕にさわやかな青空が広がる。この青空に吹く風には大量の放射性物質が含まれている。快晴の青空の下、勢いよくたなびく鯉のぼりを見ながら空は空想した。

 「この村が、村ごと空に浮かび上がって、放射能も汚染もなにも届かないどこかの青い青い空を、どこまでも飛んでいく絵が見えた。宇宙海賊船・空の村号だ!」

 空と海が乗った車が遠ざかっていく。父ちゃんと母ちゃんは、いつまでも手を振って、車を見送る。やがて父親の手が下がる。母親は耐えられなくなってその場にうずくまる。溶暗。

 

 私は原発問題についてはこれまで言及することを避けていたし、賛否についても態度を保留したままだった。個人的には、事故が起こった場合、コントロールできないような危険なものを莫大なコストを投入してまで保持し続けるなんて馬鹿げていると思う。原発はないほうが好ましいと考える。しかし原発を全廃した場合、日本経済にどのような影響があるのかといった問いには答えることができないし、原発廃止を主張するのであれば、原発で働く労働者たちの生活についても当然考慮しなくてはならないように思う。自身が現在、東京で電力に依存した文明生活を享受している、原発を含む電力問題についてはほとんど知識がない、原発事故の影響が大きかった地域の状況もよく知らない、にも関わらず簡単に原発反対と言ってしまっていいのだろうか、という迷いがある。

 『空の村号』は私がこれまで見た福島原発に関わる演劇のなかで、最も誠実で真っ当な作品だった。今回、私が『空の村号』を見て気づいたことは、原発事故で故郷を捨てなければならなかった人たちの心情ついての想像力が、これまで自分には決定的に欠如していたということだ。原発事故自体のみならず、その後の政治的・社会的動きも含め、原発周辺の住民たちは様々な不条理に翻弄され続けているという現実を意識することは重要である。この作品では村人たちの不安と苦悩がしっかりと描き出されている。田んぼも畑も家畜も、見たところ、原発事故以前と何も変わるところはない。空の父は、ドキュメンタリー映画監督のインタビューに次のように答える。

 「このまんま、みんなで、なんにも知らなかったことにして、今まで通り、この村で、家族みんなで暮らしていけねもんかと」

 しかし実際にはこの村は放射能に汚染されていて、住民はここに住み続けることはできない。やりきれない思いをかかえる村人たちには闘うべき相手がはっきり見えない。空が空想する映画とは違い、村人たちの「敵」は複合的で曖昧だ。東電か、政府か、政治家か、マスコミか、マスコミが作り出す世論、あるいはもっと大きな力なのか。村の大人たちの葛藤の様子もこの作品のなかにしっかり提示されている。大人が混乱、狼狽しているなか、子供もその影響を受けないわけはない。

 

 私は原作である70分の朗読劇を見ていない。45分に短縮されているとは言うもの、石神井東中演劇部による舞台版は展開に無理な飛躍は感じられない。45分という長さを考えると驚くべき情報量が詰め込まれている。舞台はほぼ素舞台で、最後の場面を除いては背景は黒幕で覆われている。舞台の展開を圧縮する手段として、多数の黒子を導入したのは素晴らしい着想だ。黒子は適宜現れ、必要となる小道具の出し入れを行った。舞台上の登場人物と黒子のやりとりはスムーズで、劇行為のリズムを乱さない。各エピソードは濃密だけれども、主人公の空の明朗素朴な性質を生かしたギャグもふんだんに取り入れられ、会場からは大きな笑いが何度も沸き上がった。空の映画幻想を、華やかな群舞と劇中劇のかたちで表現したのも秀逸なアイディアだった。広い間口の舞台空間の使い方もうまい。この日、私は午後に石神井東中学演劇部以外に三校の作品を見たのだけれど、作品の完成度は『空の村号』が他校をはるかに凌駕するものだった。

 中学演劇の俳優は当然中学生しかいない。大人の配役を中学生が演じるとなると、リアリズム的には無理があって、よほどうまく工夫しないと子供が大人の扮装をしたコントっぽくなってしまうのだが、石神井東中の『空の村号』では大人役にも不自然さは感じなかった。これは作品が徹底して小5の空の目から見た世界として提示されていたからだと思う。劇中の大人たちの姿は、現実の大人の模倣ではなく、小5の少年の目をフィルタとした大人たちの姿なのだ。世界の中心である空の存在は、作品のなかで始終焦点化される。場面ごとに挿入される彼のモノローグでは、彼一人にスポットライトが当たる演出になっていた。舞台上に空はほぼ出ずっぱりで膨大な台詞を担当し、舞台の世界を支えなくてはならない。この役柄は女の子が演じていたが、この難役を溌剌とした動きとよく通る声で見事にこなしていた。賢くてお兄さん思いの空の妹、海役を演じた女の子はとても可愛らしい子だった。この他、ドキュメンタリー映画監督、お母ちゃん、お父ちゃんなど空を取り巻く大人役の生徒も実にうまい。空家のペットを人間が扮装して演じる遊びも芝居のなかでよいアクセントとなっていた。この猫の演技、動きや鳴き声がまた上手なのだ。

 オリジナルの朗読劇の『空の村号』は様々な劇団や市民団体に上演される人気作となっているようだが、中学生たちが演じる舞台版『空と村号』も一般の鑑賞に堪えうるクオリティを持っている。中学演劇ゆえ外部の一般の観客が見に行くことができる機会がほとんどないことを残念に思う。