閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ジュヌン─狂気

  • Familia Productions [Tunisia]
  • 演出・照明:ファーデル・ジャイビ Fadhel JAIBI
  • 脚本:ジャリラ・バッカール Jalila BACCAR
  • 原作:Nejia ZEMNI Chronique d'un discours schizophorere
  • 美術:カイス・ロストン
  • 音楽:ピビオ/アルド・ディスカルジィ
  • 出演:ジャリラ・バッカール、ファトゥマ・ベンサイデン、モハンマドアリ・ベンジェマ
  • 場所:新宿 パークタワーホール
  • 評価:☆☆☆☆
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現代アラブ演劇界を代表する演出家による話題作という惹句に反応してチケットを予約.
女性の精神科医とその患者で精神分裂病の25歳の青年そしてその家族が登場人物.貧困の中で両親の愛情を渇望しつつ絶望した青年は精神病院と荒廃し自分の居場所がない自宅との間をさまよう生活を長らく続けている.患者である青年を母親のように主治医は見守る.
パークタワーホールは専門劇場ではない.客席は300席ほどだったが空席が目立つ.
舞台装置は簡素なものだった.幅20メートル奥行き15メートルほどの空間で三方を高さ六メートルほどの暗い色の壁で囲んでいる.背景の壁には模様らしきものが見えるが,色彩などは暗くてはっきりしない.
照明もシンプル.奥行きのある舞台だが,左右並行に帯状に照らし出すことが多い.人物も照明の帯にそって舞台を平行にずらりと並んだ配置になることが多い.照明装置はシンプルであるが視覚的には非常に印象が強い.ラストシーンのみ背後からオレンジの光で舞台上の人物をシルエットに照らし出す.
2時間強の舞台のうち,最初の3/4の時間はずっと不愉快だった.シンプルながら力強い印象を残す照明の設計や訓練された役者の動きなどには洗練されたところがあったが,精神科医と患者のマイクを使った対話と家族と患者の混沌とした場面を細かくつなぐ舞台は,時に説明不足でひとりよがりに感じられることが多かったのだ.いかにもといった感じの前衛的な頭でっかちの構成.10分ほどの長さの各シークエンスのつながりはときに唐突で,無意味に韜晦であり,しかも「狂気」というありふれたテーマをありがちないかにも青臭いやりかたでなぞっているよいうに思えたのだ.奇妙に文学的で癇に障る日本語の字幕と役者の動きのずれも気になって仕方なかった.

精神分裂病の精神世界を文学的なかたちで再現することを目指しているが,そのやり方は観客に我慢を強いるだけ,ひとりよがりのものに見えた.二つのシークエンスでドタバタのナンセンスギャグ的な要素が入る.観客の一部が喜んでいたものの,それまでの不明瞭な構成にいらいらしていた僕は,観客がそんなドタバタで喜ぶのがやけに迎合的な態度のように思え,そうした反応にさらにかっかときていた.
長い我慢の時間,それでも洗練された照明の視覚的効果や各シークエンスの展開がだんだんと加速度を増してきたので眠たくはならなかった.後半の30分がすごかった.エンディングにふさわしい美しい言葉が連なるシークエンスがいくつも重層的に重なっていくのである.ここで終わればきれいな余韻を残すのになぁと思っていると,そこにさらに別のエピソードが重なる.重なったエピソードはその直前のラストより力強いものである.最後の30分の密度の濃さに圧倒される.しびれるようなせつない美しさに満ちた愛の告白のシーンで終わると思うと,最後の最後はオレンジ色の照明が後ろ側から登場人物をシルエットにして照らし出す強烈なイメージを作り出す.そして否定と逃避と絶望をそれまで積み重ねるのみだった否定的な主人公の告白が最後の最後に切実な自己肯定の叫びを唱えるのだ.しびれるような感動の感覚を味わう.この濃い密度の最後の30分間の言葉と視覚の信じがたいほど美しい連なりのために,演出家は冒頭1時間半を「犠牲」にして,一見陳腐で退屈で説明不足のシークエンスを重ね,観客に多大の忍耐を強いたのだ.役者の動きもきわめて洗練されていて特徴的ではあったものの,究極的には「言葉の演劇」の凄みを感じさせる芝居だった.アラビア語上演のため,字幕での理解なのがもどかしい.しかしアラビア語上演でこその意義もよくわかる.
ラシーヌの作品を連想させるような,現代詩を思わせる美しい劇詩だった.

ふぅ,アラブ人の気の長さはすごい.この芝居は一万人の観客をチュニジアで動員したという.

少数の観客と至福のときを味わえた幸せはあるけれど,観客の少ないのがもったいない.