文学座+青年団自主企画交流シリーズ Hammer-Fish
http://www.seinendan.org/jpn/bskoryu/phaedres_love.html
- 作:サラ・ケイン
- 翻訳:添田園子(文学座)
- 演出:松井周(青年団/サンプル)
- 美術:杉山 至+鴉屋
- 照明:西本 彩
- 衣裳:小松陽佳留(une chrysantheme)
- 舞台監督:桜井秀峰
- 宣伝美術:京
- 制作:野村政之/Hammer-Fish
- 主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
- 共催:文学座/青年団
- 協力:サイスタジオ 六尺堂
- 出演:反田孝幸 b、上田桃子 b、添田園子 b、仲俣雅章 s、斉藤祐一 b、神野 崇 b
(b:文学座、s:青年団)
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サラ・ケインの芝居を観るのは今回が初めて。戯曲も読んだ事はなかった。
戯曲翻訳の授業で小田島恒志先生から断片的にこの作家の芝居について聞いたことがあった。性的で暴力的な表現を激しく投げつけ合う中で強烈な詩的イメージを作り出すタイプの芝居(サイモン・グレイの『JAPES』の台詞からIn-Yer(your)-Face theatreと批評家たちは呼んでいるらしい)がここ数年ロンドンで流行っているらしいが、こうした流行の嚆矢となったのがサラ・ケインの作品だ、とのこと。こんな話を聞くとサラ・ケイン作品をがぜん観たくなる。小田島先生の授業以外でも、彼女の名前はここのところちょくちょく目にすることがあり、気になる作家だった。
邪悪な露悪趣味では若手演劇人の中でも一等地を抜く存在であるように思う松井周がサラ・ケイン作品を演出するということで、かなり期待が大きかった舞台だった。うーん、でも観劇後の満足度は中くらいか。最初から最後までテンポが重い。
原作戯曲をどれくらい演出でいじっているのかが興味をもった。
ヒッポリュトスを汚物やお菓子で一杯のバスタブに入れて移動させるプランや、クリーム色一色の壁と床に工事現場の移動用櫓を配置した無機的で殺伐とした舞台空間、まったく古代の王族風ではなく、一般的な現代人として王族を演じる登場人物たち、王妃の象徴であるパイドラのティアラという小道具によるアクセント、など松井周らしい演劇的創意の数々には感心した。
こうした面白いアイディアもたくさんあったのだけれど、公演当日に配布された挨拶文にある「コスプレ」のアイディアなどは僕にはひとりよがりで空回りしているように感じられた。
露悪的な性的表現へのこだわりを松井作品には感じるけれど、その悪趣味ぶりが時にあまりに定型的に感じられることがある。その表現方法も悪趣味を標榜しつつ、その演劇的再現に自ら限界を設けているようにみえ今一つインパクトに弱い。こうした性的表現を舞台上でどの程度まで、どうやってリアルに再現するかというのは大きな問題だとは思うけれど、その外枠が表現のなかではっきり見えてしまうと僕はちょっと白けてしまう。人工的なエロスの凄さを感じさせる工夫が見たい。
今回の公演に関しては、部分部分の仕掛けに神経がいきすぎて、散漫で空虚な感じ。特に後半は単調に感じた。戯曲のポテンシャルを十分に引き出す事に成功しているようには僕には思えなかった。
サラ・ケインの『パイドラの愛』は、古代ローマの詩人、セネカの作品を下敷きにしたものだ。セネカが手本にしたのはギリシャのエウリピデスの作品である。
後妻が夫の留守中に、夫の連れ子である義理の息子に恋情を抱くという不倫の恋のモチーフは「創世記」やホメロースにもあるそうだが、その起源はインドにあると考えられている。このモチーフは仏教説話の形で極東の日本にも伝わり、説教節の『しんとく丸』、謡曲の『弱法師』、文楽の『摂州合邦辻』などの作品へと発展していったそうだ。フランスではラシーヌの『フェードル』がこの主題を扱った傑作として知られている。
今日の松井演出版、サラ・ケイン『パイドラの恋』を見て、想起したのは昨年秋に見た藤十郎の『摂州合邦辻』である。この二つは同一モチーフの発展形とはいえそれぞれ別の作品ではあるものの、恋という衝動のおぞましさ、不可解さの表現という点では、藤十郎の表現のニュアンスの豊かさは、『パイドラの恋』のどぎつさを、はるかに圧倒するものであったように思う。