閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

追奏曲,砲撃

桃園会 第三十四回公演
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5931/

  • 作・演出:深津篤史
  • 美術:池田ともゆき
  • 照明:西岡奈美
  • 音響:大西博樹
  • 出演:亀岡寿行,紀伊川淳,寺本多得子,はたもとようこ,長谷川一馬,小坂浩之,アマノテンガイ,生田朗子,樋上真郁,川井直美,橋本健司,森川万理
  • 上演時間:1時間30分
  • 劇場:下北沢 ザ・スズナリ
  • 評価:☆☆☆☆★
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桃園会は,先日,新国立劇場で再演された『動員挿話』の演出を担当した深津篤史が主宰する,関西に拠点を置く劇団である.劇評でこの劇団の公演の評をよく見かけるのだが,僕が公演を見るのは今回が初めてだった.

省略の多い表現で,断片的な場面がシャッフルされたカードのように連鎖する展開は作品を解り難いものにしているのだけれど,僕にとってはとても刺激的で面白い作品だった.上演時間は一時間半.

タイトルもちらしの絵も,そしてチラシ裏に掲載されている文章もほとんど作品内容を予測するには役にたたないだろう.タイトルの意味合いについては気になったので,アフタートークの際に質問した.「追奏曲」とは輪唱曲を示す「canon」の訳語だそうだ.そして「砲撃」は英語でcanonの同音異義語である「cannon」大砲から取られたという.同じ主題が追いかけ,繰り返されることと,砲撃のイメージ,ここまで説明されてようやく何となくタイトルと作品内容のつながりが見えてくる.説明されればなるほどと思わないでもないけれど,個人的にはこういった説明されなければわからないようなタイトルはあまりよいとは思わない(作品の部分で全体を示す提喩的なかたちのタイトルが好み).だがどうせなら「canon」の第一義である「正典」の意味も重ねても面白いかもしれない.さらに「追奏」は「追想」という同音語に重ねると,物語の内容とうまく適合する.


舞台美術は抽象的で,色は黒一色,四段ほどの階段の高さに奥に向って半円状,幅50センチほどのテーブル状の壇が据えられているだけである.この半円のテーブルは,時にバーのカウンターとして使われる.背景の黒幕にはかすかに白い水平線が何本か平行に走っている.アフタートークでの演出家の弁によると,この芝居の主題の一つは「距離」だと言う.地理的,心理的な距離,遠くにあると思っていたものが実は近くにあり,すぐそばにあると思っていたものが案外遠い,我々はときおり自分たちが持っていた距離感覚の不安定さに気づき,狼狽してしまうことがある.背景の水平線の様々な間隔は,そうした距離を視覚化したものになっている.

中心となる人物は40過ぎの駆け出しの作家の男である.彼は大阪に住んでいる.作家としては食えてない.舞台の一つは彼が住む大阪のミナミの町.彼の恋人,彼の行きつけのスナックのママと客,ミナミの繁華街をうろつく人々と二匹の犬が彼に関わりを持つ人物として舞台上に現れる.
もう一つの舞台は沖縄の離島のとあるスナック.この島には30年前に家庭を捨て大阪から流れ着いた,作家の男の父親がいる.父親はこの島のスナックのママの内縁関係を結び,二人の間には成人に達した息子がいる.

作家の男の祖母が死に,遺産相続の問題が生じたため,家庭を捨てて沖縄に住む父親に,作家は30年ぶりに電話をかけ話をしなくてはならなくなった.これが物語の核となる出来事である.この出来事を中心に,沖縄,大阪の二つの場所で,祖母の死の前後にあった,作家の男に関わるいくつかの時間のエピソードが,はっきりした脈絡が明示されないままばらばらと演じられる.
このエピソードの連鎖の仕方の唐突さがとても印象的だ.台詞の状況はしばしば省略が多く,説明に乏しい.観客は積極的にその空白を埋め,バラバラのピースを自分なりに組み合わせることを強いられる.上演開始しばらくの間は,手がかりがないので,いったい何が語られるのか手探りのまま,各場面を追いかけるという感じだ.

この厄介で面倒な作業がそれほど苦に感じられなかったのは,台詞のテクストの文句の美しさゆえである.関西弁の響きに乗せられた空白の多いテクストは,豊潤な詩的なイマージュを喚起する.言葉が醸し出す美しいイメージに身を委ねることができれば,この芝居を楽しむことができるはずだ.

観客は作家の男の経験した現実とも,それとも彼の頭の中の妄想ともつかぬ世界を,彼に誘われながら体験する.
西洋演劇では伝統的に劇作家は「詩人」と呼ばれ,事実彼らの書いたドラマは「詩」と見なされてきたのだが,深津篤史のテクストにもそうした意味での豊かな詩情を感じる.現代の都市社会に住む人間が抱える精神の孤独と彷徨を,一編の劇詩として提示した非常に美しいテクストだと僕は思った.