閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

恭しき娼婦:譲れないものを失うことのファルス La Putain respectueuse

ASC 第37回公演
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シェイクスピア劇を専門とする劇団によるサルトルの劇の上演。かつては日本でも盛んに上演されていたのかもしれないが、最近はサルトル劇の上演はめったに見ることができないように思う。
『恭しき娼婦』はアメリカ南部が舞台の作品。北部から数日前に南部へ流れ着いたばかりの娼婦、何日か前にその娼婦を列車の中で強姦したという嫌疑をかけられ町の住民に追われている黒人、娼婦のこの町での始めての客である若い白人の男、街の有力者であるその男の父親の4名が主な登場人物。

数日前この娼婦が乗っていた列車の中で、酩酊状態にあった若い白人男性が二人組みの黒人のうち一人を撃ち殺してしまった。この白人男は、黒人がこの娼婦に狼藉を働いていたといううそをでっち上げ、自分の殺人行為を正当化しようとする。生き残った黒人は娼婦に彼が何も悪いことをしていないことを証言するように懇願する。娼婦は自分が見てきたことしか語らないことを誓う。
この南部の町で娼婦の最初の客となった男は、数日前黒人を撃ち殺した男のいとこだった。彼らは町の有力者の一族である。男と男の父親は娼婦をなんとか説得し、彼女からうその証言を引き出す。つまり黒人男が彼女を強姦しようとしていたところを白人男性に助けられた、という話が事実であることを彼女に認めさせたのだ。この証言によって白人男性は告発されずにすみ、逆に逃げ出した黒人男は強姦魔として街の白人からのリンチの対象となった。
娼婦は嘘の証言を激しく後悔し、逃げてきた黒人の男をかくまう。

明らかに社会の周縁的存在である黒人と娼婦を善なるものとし、白人の有力者を悪の象徴とする対象が類型的すぎて、正直、戯曲を読んだときはそれほど面白い作品であるとは思わなかった。こうした単純化された図式は現代の感覚では受け入れるのが困難だ。最後に白人男が娼婦を念押しするかのように陵辱し、屈服させる場面は、テネシー・ウィリアムスの『欲望という名の電車』を連想したが、人物関係の描写の複雑さ、人物の内面と物語の深さは、サルトルのこの作品はウィリアムズに遠く及ばない。

舞台でこの作品を見たのは今回が初めて。戯曲の求心力の弱さについては舞台を見た後でも印象は変わらなかったが、この舞台自体は役者の動きやせりふのひとつひとつまで丁寧に演出されていることが感じられる、非常に密度の高いものだった。町の権力の頂点にある白人男の父親と劇中でもっとも弱い存在である黒人という対照的な役柄を一人の同じ役者が演じるという狙いは面白い。「悪い」白人が黒い服を着て、善の象徴である娼婦、そして逃げ惑う黒人が白い服を着るという対象もよく生きた演出だったと思う。最初と最後に娼婦が全裸になり、激しく泣くというも、非常に効果的で作品に強い印象を与えていた。
しかし全般に演出自体が説明過剰であるように思え、そのため重苦しく、かなりうっとうしい舞台になってしまった感もある。空調が切られた上演中は、観客の熱で実際の室温もかなり高くなっていたのだけれども。

主演で舞台に出ずっぱりの日野聡子は、超をつけたくなるほどの熱演振り。あの狭い劇場で美しい裸体をさらすという女優根性にも圧倒される。顔立ちも美しいし、プロポーションもすばらしい。笑顔もとてもかわいらしいし、うーん、やっぱり彼女は見入ってしまうよなぁ。