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- 作:テネシィ・ウィリアムズ
- 訳:鳴海四郎
- 演出:三條三輪
- 照明:黒柳安弘
- 装置・音響:菰岡喜一郎
- 衣裳:サヨコ中山、今川ひろみ
- 小道具:るいざ・もりな
- 劇場:雑遊
- 上演時間:2時間半
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昨年11月に板橋演劇センターによる『終わりよければすべてよし』を見たとき、特に気になった俳優がふたりいた。ひとりはヒロインのヘレナを演じた朱魅、もう一人はヘレナの後見人の伯爵夫人役を演じた三條三輪である。
元ストリッパーの朱魅は、ストリップ引退後は様々なユニークな趣向のエロチックなパフォーマンスを行いつつ、俳優としての活動している。三條三輪は、日本の新劇運動の祖であり、左翼プロレタリア演劇の指導者であった土方与志(1898-1959)に演技指導を受けたという。土方が死んだのは今から62年前だ。インターネットで検索してみると、2019年3月に、三條三輪はテアトロ演劇賞功労賞を104歳で受賞したとあった。ということは今は106歳ということになる。
さすがに本人は年齢のことばかり言われるのは仕方ないとは思いつつもうんざりしていると思う。板橋演劇センター『終わりよければすべてよし』の当日パンフでは自らを「長生きの化け物」と称していた。それはわかっていてもなおこの年齢で現役の演出家・俳優であるという事実には(そして現役の医師でもある)驚嘆せずにはいられない。
twitterの朱魅のアカウントで(@cook_black)で、この『地獄のオルフェウス』に朱魅が出演すること、そしてその演出が三條三輪ということを知って、これは何としても見に行かねばならないと思った。
新型コロナ感染者急増で蔓延防止法が発令され、公演終了時刻が午後8時までになるよう調整する公演が多いなか、この公演の開演時間は通常どおりの午後7時だった。観客は中高齢の男性の割合が多いように見えた。劇場内は満席でおそらく80名ぐらいの観客がいた。
テネシィ・ウィリアムズの『地獄のオルフェウス』(1957)は長大な戯曲で、すべてを上演しようとすれば4-5時間はかかるという。今回の上演は休憩10分を入れて、上演時間は2時間半だった。当日パンフを見て驚いたのは、三條三輪は演出だけだと思っていたら、出演もすることになっていたからだ。しかもこの劇の主役の一人、レディー・トーランスが彼女に振られた役だ。出演者は全部で14名で、登場人物に設定された年齢とあまり差がない年代の俳優が5名ほど、このほかの俳優はかなり高齢に見えた。この戯曲のもう一人の主役であるヴァルを演じたのは、三條三輪とともにこのカンパニーを取り仕切る跡見梵で、彼もみた感じかなりの老齢だ。
『地獄のオルフェウス』は、アメリカ南部の町の保守的な白人優位社会における陰惨な差別と暴力を、ギリシア神話のオルフェウス伝説になぞらえて描いた悲劇だ。ギターを抱えてこの町にやってきた流れ者のヴァルは、竪琴を奏で、その音色によって周りの人間を魅了するオルフェウスであるが、彼もギリシア神話のオルフェウスのように、最後にはこの南部の地獄で斬殺されてしまう。ヴァルに地獄から抜け出る希望を見出し、彼とともに脱出を図ろうとしたレディーはエウリディケということになる。
当日パンフの文章で三條三輪は、今の若い世代には古くさいと言われるけれど、テネシィ・ウィリアムズの台詞に込められた人間の心理の精妙さは、「新劇」的な手法で表現されなければならないと書く。そしてその演出にあたっては、作者の詳細なト書きをできる限り尊重することを心掛けたに違いない。
しかし舞台で表現されたものは、いわゆる新劇的リアリズムを超越した表現主義的とも言えるようなデフォルメが加えられた、濃厚なバロック的世界だった。登場人物の情念と俳優と演出家の思いが暴走して、ドロドロに溶け、まじりあったような強烈な舞台だった。熟成が極端に進行し、独特の芳香を放つチーズのような新劇というか。
冒頭の場面から衝撃を受ける。まず衣裳とメイクが作り出すビジュアルのファンタジーが強烈だ。金髪のかつらと白塗り、そして蛍光色を思わせるような派手な色合いのドレス。俳優の丁寧に言葉を伝えようとする姿勢は伝わってくる。そして言葉の内容はさらに説明的な動作と表情によって冗語的に強化される。
舞台上で咆哮するインディアンのまじない師の黒人のヴィジュアルもすごかった。極端な記号的メイクとアルレッキーノのようなカラフルな服装の彼が舞台に入ってくると、舞台空間が切り裂かれるようなインパクトがあった。町のボスでレディの夫のジェイブ、保安官など、あらゆる登場人物が記号的人物像を突き抜けるような過剰な存在感を持っている。
その風貌と歌声で周囲のあらゆる女性を燃やしてしまう男、ヴァルの人物造形もここでしか見られないものだろう。ヴァルを演じる跡見梵はかなりの高齢だと思うのだが、この放浪者を演じるにふさわしい色男の雰囲気は持っている。肝心の歌も達者だ。この歌が下手だとヴァルの存在に説得力がなくなってしまう。しかし彼をヴァルにとどめていた演劇の魔法が、休憩後の後半には切れしまった。台詞が出てこなくなってしまったのだ。台詞が出なくなると、途端にヴァルは自信を喪失し、その魂は体から抜け出てしまい素に戻る。ヴァルの存在を引き受けるより次の台詞を探すほうにばかり意識が向かっていることが観客に伝わってしまった。高齢になってくると台詞が入りにくくなるのはどうしようもないことだが、たびたびの台詞落ちで芝居のリズムが途切れてしまったのは残念だった。
一方、演出にして主演の三條三輪は、移動の際の足の動きこそおぼつかないところはあり、特に階段を上り下りするときには見ていてひやひやしたが、台詞はほぼ完ぺきに入っていて、その口舌も明瞭だった。劇中でのレディーの年齢設定は40歳代半ばだろうか。彼女は流れ者のヴァルと恋愛関係となり、彼の子供を宿す。舞台上でのキスシーンもあった。60歳以上の年齢差の人間を三條三輪が演じていること自体に感動していまう。三條三輪は役柄を通じ、時間を超えて、今をその者として生きている。とにかく三條は生きている限り、演じずにはおられないのだろうし、人前で演じている自分をさらけ出す時間にこそ、彼女は彼女にしか味わうことのできない特権的な生の充実を獲得しているのだ。そして舞台上で演じる彼女の姿がどれほど神々しい輝きを放っていることか。これはもう奇跡の現場に立ち会っているようなものなのだ。
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終演後、楽屋に三條三輪を訪ね、一緒に写真を撮って貰った。