韓日MIXヴァージョン
タイニイアリスにイ・ユンテク演出、ジャン・ジュネ作「女中たち」を観に行った。今回はキャストの異なる3つのバージョンの上演が行われたが、私が見たのは韓日の混合チームのもの。『女中たち』の登場人物は女性三名だが、韓国人女優がマダムを演じ、日本人女優二名が女中を演じる。
上演時間は一時間四五分ほどだが、膨大な言葉が詰め込まれた重量感のある芝居だ。
作品は大きく三部に分かれる。最初と最後のパートは女中たちが演じる倒錯的なロールプレイが演じられる。女中二人も相当エキセントリックな人物なのだが、真ん中のパートに登場するマダムはその女中たちを圧倒する強烈な人格の持ち主だ。
言葉の圧力に押しつぶされるような芝居なのだが、ユンテク演出はそれをさらに粘っこく暑苦しいものにしていく。情念のドロドロとした澱みのようなものが舞台上に漂っている。昨今は、とりわけフランス系前衛では難解な戯曲の上っ面だけをすくい取り、小ぎれいで洗練された舞台を提示するセノグラフィ重視のインスタレーション芝居が多いけれど、ユンテクはそれとはまったく正反対だ。
『女中たち』はジュネの作品のなかでも比較的よく上演される作品で私はこれまで3、4回は見ているが、今回のユンテク演出、韓日版が自分としては会心の作であるように思った。異形で独創的なデフォルメは加えられている。しかしその仕掛けの数々は確かに戯曲の言葉から紡ぎ出された、いや絞り出されたものであるように思える。これぞ本物のジュネ、「女中たち」の本質が抽出されているような気がした。役者たちはまがまがしい情念と悪意、絶望の泥地を這い回る。見る方としてもかなりヘヴィで覚悟のいる芝居だ。表現のひとつひとつが身体にまとわりつくような粘っこさがある。
三人の役者のグロテスクなパフォーマンスが素晴らしい。多彩な声の使い分け、動きの美しさが、混沌とした狂気と絶望の世界を構築していく。韓日版ではマダムを演じた韓国人女優は日本語の台詞を話す。韓国語なまりが効果的に用いられていた。二人の女中を圧倒的に支配する彼女は壊れた機械を思わせる強烈な存在感があった。
演劇を音楽に喩えるというのは陳腐ではあるが、リズムと雰囲気の異なる各場面が組曲のように構成された優れて楽曲を想起させる舞台でもあった。最後の場にはモノローグの場面がある。美しい所作に合わせて詩的なテクストが朗唱される。それはオペラのアリアの聞かせどころのようだった。声と動きが「女中たち」のテクストの詩的魅力を引き出していた。この部分はあたかもラシーヌの悲劇の聞かせどころのようだ。ジュネがフランス演劇の伝統のなかにある作家であることを再認識させてくれた。
そして芝居は悲壮で緊張感に満ちたデュオで導かれる。マダムと女中の支配−被支配の関係を女中二人がグロテスクな戯画として演じることでこの芝居は始まり、そして最後は最初に提示されたこの劇中劇構造のなかで深い絶望の余韻を残したまま終わる。
『女中たち』のテクストに含まれるポテンシャルが多彩で突飛な仕掛けによって日出されていた舞台だった。原作をもう一度読み込んで見たくなった。
また今回上演された別のバージョンも見ておけばよかった。韓国版はまた全然異なるコンセプトに基づいて演出されているとのこと。もっと音楽劇的で、喜劇的だと言う。