彩の国さいたま芸術劇場/彩の国シェイクスピア・シリーズ第26弾『トロイラスとクレシダ』
- 作:ウィリアム・シェイクスピア
- 演出:蜷川幸雄
- 翻訳:松岡和子
- 出演:山本裕典、月川悠貴、細貝 圭、長田成哉、佐藤祐基、塩谷 瞬、内田 滋 廣田高志、横田栄司、塾 一久、間宮啓行、鈴木 豊、妹尾正文、岡田 正 福田 潔、山下禎啓、井面猛志、星 智也、谷中栄介、鈴木彰紀※、尾関 陸、田中宏樹 小野武彦、原 康義、たかお鷹
- 上演時間:3時間5分
- 劇場:与野本町 さいたま彩の国芸術劇場
- 評価:☆☆☆☆
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蜷川幸雄の公演はチケット代が高いのであまり行かないのだけれど、今回は『トロイラスとクレシダ』というシェクスピア37作品のなかでも滅多に公演されない作品の上演だったので、発売早々に予約した。私はこの作品の上演を観たこともないし、戯曲も読んだことがなかった。シェイクスピアのなかでは唯一の古代ギリシャもので、トロイア戦争を扱っている。ただしシェイクスピアのソースはホメロスではなくて、14世紀のチョーサーの『トロイルスとクリセイデ』などの英語による翻案らしい。トロイラスはトロイア王プリアモスの王子、トロイア戦争の原因を作ったパリスの弟であり、クレシダに恋をしている。クレシダの叔父、パンダロスの仲介で二人の恋は成就するが、ギリシア軍との捕虜交換により、クレシダはギリシア軍に引き渡され、恋人は別れ別れになる。永遠の愛を誓って別れた二人だが、クレシダはギリシア軍将軍ディオメデスに誘惑され、トロイラスを裏切る。その様子を陰から見ていたトロイラスは嫉妬に怒り狂う。
さてこれが恋愛悲劇ならトロイラスかクレシダのどちらかが死ぬことになるはずなのだが、『トロイラスとクレシダ』ではどちらも劇の最後まで生き残る。トロイラスはクレシダ心変わりの場を目の当たりにしても、怒りにまかせその場でクレシダを殺したりしない。クレシダが舞台から立ち去ったあと、ひたすら激しい嫉妬で身もだえするだけなのだ。また仮に悲劇仕立てだったら、クレシダの浮気も、『オセロー』のデズデモーナのように、トロイラスの勘違いであったりすると思うのだが、この劇では別れる前にあれほど永遠の愛を二人で確かめ合いながら、ギリシアに渡るとあっさり現地の男にクレシダが口説かれてしまうところが面白い。
作品のタイトルからするとトロイラスとクレシダが物語の中心のように思うのだが、トロイアの将軍ヘクトルとギリシアの英雄アキレウスの対立、戦いが後半の展開の軸になっていて、劇の結末もヘクトルの死で締め括られる。一つの劇作品のなかで複数の筋立てが進むのはシェイクスピア作品では珍しいことではないが、この『トロイラスとクレシダ』では二つの筋の併存が不器用な接ぎ木のようにちぐはぐとした感じがあって、有機的に結びついていない。物語の面からは途中からはじまって、結末に至らぬまま突然終わるという感じで、宙ぶらりんでカタルシスがない。上演機会があまりないのは、この戯曲のバランスの悪さが原因だろう。
蜷川はこの作品を全キャスト男優で上演したが、芝居の提示の仕方も歌舞伎的な感じがした。各場面は密度の高いセリフと洗練されたビジュアル、そして役者の魅力できっちりと作るが、全体の展開の流れの整合性にはあまり配慮しない。視覚的インパクトと展開の速さで見世物としてのつじつまを合わせるやり方だ。ちょっと考えると、蜷川の舞台は今日の『トロイラス』に限らず、歌舞伎的舞台の発想が取り入れられているように思う。
各場面での展開はスピーディーでリズムがあり、セリフもしっかり聞こえた。各役者にしっかり演出をつけているなという感じがした。たかお鷹が機知に富んだ皮肉でギリシアの将軍たちをからかうテルシテスという老人の役をやっていて、道化っぽいこの役柄が狂言回し的に各場面の展開を結んでいた。小さな笑いの仕掛けが所々に効果的に仕込まれていて、3時間の舞台だったが退屈することはなかった。各人物の造形もしっかりされていた。
ひまわりで舞台を埋め尽くす美術も秀逸。劇場に入った途端、ひまわり畑の舞台のビジュアルが目に飛び込んでくる。舞台美術はひまわり畑と防波堤を思わせる灰色のがらんとした抽象的空間の二種類が交互に現れる。最後にひまわり畑のなかで人物が見え隠れする中でのトロイア軍とギリシア軍の戦闘場面はとても印象的であった。こうしたスペクタクル的空間の構築は蜷川ならではという感じがする。
ヒロインのクレシダ役を演じた月川悠貴がとても美しい。今後も女形役者としてやっていけるのではないだろうか。
隣に座っていたきれいな女性客が、クレシダとトロイラスの別れの場面を、ぽろぽろ涙を流しながら見ているのがとても印象的だった。あれはよかったなあ、ホントに。