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作品の題材にせよ、宣伝のしかたにせよ、私のような中年おやじは観客のターゲットとして想定されていない舞台作品なのだが、ケベックの女性小説家の原作をケベック人女性演出家が翻案・演出した作品ということで見に行った。
マリー・ブラッサールはケベックの演出家のなかでも注目されている存在のようだ。ルパージュと長年一緒に仕事をしたそうだが、一辺2メートルほどの正方形のボックス10個を2段にならべた舞台美術の美しさ、センスのよさは、確かにルパージュを連想させる。音楽もいい。ただし日本語の歌詞の歌は今一つだった。
七人の女性キャストが、元高級娼婦の作家で36歳の若さで自殺したネリー・アルカンのテクストを、各ボックスのなかで読み上げるモノローグ劇。アルカンのテクストはいずれも文学的な表現に彩られた私語りだ。
俳優も美術も悪くないのだけれど、今一つその表現が空回りして、心に響かないのは、私がこの作品の世界にあまり興味を持てないことに加え、物語と演出スタイルが日本人女優にマッチしていないからだと思った。華奢な日本人女性の身体は、ネリカンのテクストの世界とあの演出では、表現に説得力を持ち得ない。
客席は空いていた。この七人のキャストでも集客が厳しいのか。興行は難しい。招待客がたくさん混じっているような感じがした。「この熱き私の激情」という日本語タイトルのセンスもなんかなあという感じがする。原題はLa fureur de ce que je penseなので、やりすぎの意訳というわけではないのだけれど。
リー・アルカンがフランスやケベックでどれくらい人気のある作家なのか私は知らないのだけれど、日本でのパルコでのキャンペーンのしかたは(映画も含め)あまりにも俗っぽい紋切り型で私は興ざめだ。ケベックものということで応援したいのだけれど。
舞台は手法的な面白さはあったけれど、ネリーの抱えていた問題は、共有共感し難かったのが、あまりこの作品に乗れなかった大きな理由だと思う。ある種の女性観客層にはアピールするところはそれでもあるのかもしれない。
映画も舞台もすごく陳腐でありきたりのイメージの中に、彼女を押し込めているなという感じがした。その取り扱われ方、消費のされ方に、彼女の本質的な悲劇性があるという逆説が露呈されていたとも言えるのでは。