FBでの投稿をまとめたものです。
【ブックカバーチャレンジ】
・読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
・好きな本を1日1冊、7日間投稿
中世とフランス文学についての本を中心に七冊の本を紹介しました。
【第一日目】
佐藤彰一・池上俊一『西ヨーロッパ世界の形成』、《世界の歴史 10》、中央公論社、1997年。
全三〇巻あるみたいですが、私の手元にあるのは中世の時代を扱った第十巻だけです。今は文庫版があるみたいですが、私が持っているのは1997年初版の単行本版。
久々にめくってみたけれど、いい本だ。王朝史、政治史ではなく、社会史、文化史的な記述が中心の中世史です。
図版も多いし、文章も平易で読みやすい、高校生ぐらいから読める格好の西洋史入門だと思ったのですが、アマゾンのカスタマーレビューには
「著者は「フランスかぶれ」なのでしょうか?
フランス語の文章を直訳したようなヘタな日本語を書いて、ご満悦?この文体のせいで読むのが苦痛でした。」
というのもあって、「ええ、マジっ!」って感じでした。
こんな本を手に取るくらいなのですから、それなりの歴史マニアだと思うのですが、それでもこの文章が「ヘタ」で「読むのが苦痛」となってしまうと。うーむ。
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【第二日目】
ベディエ編、佐藤輝夫訳『トリスタン・イズー物語』、岩波書店、1953年、1985年(改訂新版)。
ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》によってよく知られている中世の不倫の愛の物語ですが、ケルト起源のこの物語の最も古いテクストは十二世紀後半にフランス語で書かれたものです。
この『トリスタン・イズー物語』は偉大な中世フランス文学研究者のジョゼフ・ベディエ(1864-1938)が1890年に発表した作品です。ベディエは十二世紀後半に書かれた二つの「トリスタン」のうち、より原型的であると考えられてるベルールのテクストをベースに、ベルールのテクストでは欠落しているエピソードを、中世に書かれた他の「トリスタン」もの記述で補い、編纂することで、独自の「トリスタンとイズー」の物語群の総体を示しました。
『トリスタンとイズー』の物語は、中世のあいだに形成されていったこの不倫のカップルを主人公とする様々なエピソードの集成です。
優れた文献学者であり、中世のテクストを綿密に検討したベディエによる「トリスタン」は、ワーグナーが楽劇化にあたってそぎ落とした様々な不思議で美しいエピソードを含んでいます。濃厚な愛の情念がせめぎ合うワーグナーとは、別の世界がそこでは展開しています。
しかし文献学者ベディエもまた十九世紀後半のロマン主義の美学にどっぷりとつかった人間でした。彼の『トリスタン・イズー物語』は、中世のオリジナル・テクストに依拠しつつも、その物語の世界や価値観は近代的なロマンチシズムによって大きく歪曲されているという批判があります。しかしそのロマン主義のフィルタごしの中世の愛の物語がなんと豊かで美しいことでしょうか。
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【第三日目】
松原秀一『中世ヨーロッパの説話:東と西の出会い』、中央公論社、1992。
世界各地に伝わる説話の類似を実証的に検証することで、古代・中世の東西世界における文化的交流の痕跡をたどろうとする壮大な比較文学研究です。
松原秀一先生の博識ぶりは驚異的です。専門の中世フランス文学はもちろん、近現代のフランス文学、古典古代の文学、そして日本の説話集や仏典など。丹念にテクスト間の共通点と相違点を拾い上げて、数千キロの距離と数百年の時にわたるつながりを浮かび上がらせていきます。
この著作の驚くべきところは、文献学的な手続きを踏まえた学問的著作でありながら、その語り口はやわらかいエッセイ風であるところです。松原先生の留学時代のエピソードなどが、自然に学術的な内容へとつながっていきます。
大量の文献の引用がありますので、読むのには若干煩雑さがありますが、遠い彼の地に伝わっていた物語が、その引用と先生の推論を介して、日本までつながっていくリンクが見えてくる展開に、知的な刺激に満ちた読書体験を味わうことができます。
もちろん私にはこんな学識にはとうてい到達することができません。その知識の巨大さとそれをやわらかく語る術、人間的余裕ともいえるものには、研究者、人間としての格の違いを感じずにはいられません。
松原秀一先生の著作には知的好奇心に駆られ、未知の領域に踏み込んでいくのを先生ご自身が楽しんでいる様子が感じられるような気がします。
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【第四日目】
作者不詳/川本茂雄訳『歌物語 オーカッサンとニコレット』、岩波書店、1952年。
『オーカッサンとニコレット』は十三世紀初頭に書かれた古フランス語の短い物語です。歌付きの叙情詩と散文の語りが規則的に交錯する形式で書かれ、「歌物語」chantefableと写本にはありますが、この形式で書かれた作品は中世フランスではこの作品しか残っていません。
南フランスのボーケールの王子オーカッサンは城代の養女ニコレットに激しく恋い焦がれています。しかしニコレットは遠国から連れて来られ、イスラム教徒から買われた奴隷女だったため、王も王妃もその恋を認めるわけにはいきません。ニコレットとオーカッサンはそれぞれ幽閉されますが、駆け落ちし異国へと逃れます。
波瀾万丈、荒唐無稽で、素朴な物語です。私がこれまでに読んだ中世フランス語で書かれた文学作品のなかで最も愛らしく、美しい作品です。
そして川本茂雄先生の擬古文調の訳文が、実に典雅で心地よいのです。こうした擬古文調はリズミカルで、音楽性が豊かで美しい。古文・漢文をちゃんと勉強していなかった私にはこんな訳文は絶対に作れないですね。
何誰が聴こし召されうや、
ニコレットにはオーカッサン
二人の眉目よき若者の
古き傳説の歓びや、
面輝ける乙女ゆゑ
若者忍べる大難儀、
樹てた手功の良き詩句を。
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【第五日目】
澁澤龍彦『悪魔のいる文学史─神秘家と狂詩人』中央公論社、《中公文庫》、1982年。
早稲田大学第一文学部の仏文専修に進んだのですが(早稲田では2年次から専修に分かれるシステムです)、もともと仏教美術研究をやろうと思って美術史の専攻がある大学を受験した私は、仏文に入るつもりは全くありませんでした。大学一年のとき漢文を一所懸命勉強したのですが、必修の第二外国語のフランス語を落とし、専修進級のための再試験を受けているうちに、希望専修だった美術史の定員が埋まってしまい、第4志望(事務所に第4志望まで書けと言われました)の仏文専修に行くことになってしまったのです。
まあ仏教美術から仏文なので、「仏」ではつながっていたとは言えますが。
高校時代は小説をよく読んでいましたが、読むのは日本の作家ばかりで、外国の作家の小説はほとんど読んでいませんでした。仏文に進んだその頃の私が知っていた仏文学の情報のほぼすべては澁澤龍彦のエッセイから得たものでした。澁澤龍彦は高校時代に夢中になって読んだ作家の一人でした。
澁澤龍彦のエッセイのなかで私が一冊挙げるとなれば、この『悪魔のいる文学史』になります。19世紀フランスのロマン主義の潮流に育まれながらも、その奇矯でグロテスクな想像力と破天荒な生き様ゆえに主流になりえなかった異端の文学者・思想家に焦点をあてた文学史です。
高校時代に読んだときはフランス文学の知識がほぼ皆無だったのでこの特異な文学史の面白さはよくわからなかったのだけれど、仏文専修に入ってから読み返してようやく面白さがわかるようになりました。今、久々に読み返すと、初版の単行本は半世紀近く前に出版された本というのに、やはり実に面白い本です。
19世紀後半の詩人、シャルル・クロが書いたトリスタンとイズーの対話詩の引用がとりわけ印象に残っています。
トリスタンとイズーの情熱的な愛のやりとりが、一音節語の羅列によって表現されています。一音節の語が並んでいるだけれだど、ちゃんと韻を踏んでいます。
有名な詩なので内容はご存じのかたは多いでしょう。
澁澤龍彦はこの詩の訳はのせていません。私もあえて訳さないままで紹介しておきます。本当にくだらない(笑)、でも最高。
トリスタン
Est-ce
Là
Ta
Fesse ?
Dress
La.
Va ...
Cesse ...
イゾルデ
Cu ! ...
Couilles !
Tu
Mouilles
Mon
Con
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【第六日目】
月村辰雄『恋の文学誌:フランス文学の原風景をもとめて』、筑摩書房、1992年。
著者の月村辰雄先生は東大文学部で教鞭を執った中世フランス文学の研究者です。私は残念ながら月村先生の授業に出たことはないし、実際に会う機会もありませんでした。
『恋の文学誌』は一般向けの著作で、中世フランス文学だけについて語られているわけではありません。古典古代から近現代にいたるヨーロッパの文学作品に見られる恋愛の諸相が、堅実な学識に基づく様々な学術的アプローチによって考察されている名著です。
といってもその記述は専門書の堅苦しさや無味乾燥とは無縁です。書物に書かれたさまざまな恋愛のありかたに、著者がまっすぐ誠実に向き合っていることが文章から伝わってきます。
書物を丁寧に読み解くという作業は、この著作では、恋愛そのもののプロセスのアナロジーになっています。新しい書物に手にして眺めるときの浮き立った気持ちとそれを読み解いていくときの苦しみと喜びは、ここでは恋愛という体験と重ねられているのです。『恋の文学誌』の記述は著者の教養の深さを感じさせるのだけれど、そのペダンティスムは嫌らしいひけらかしがなく、品格を感じます。そして何よりも著者の「私」を常に感じさせる抒情詩のような味わいもある本でもあります。
この本は大学学部の授業で、シニカルでおしゃれな雰囲気でちょっともてそうな仏文の教員が紹介していたので知りました。このとき、この教員はこんなことを言ってこの本を紹介したのを今でも覚えています
「僕の友人の月村君という東大で先生をやっている人が本を出したんですが、そのタイトルが『恋の文学誌』というものだったんで、『え!?月村君がこんなロマンチックな本を』とびっくりしたんですよ。月村君が書くのだったら、タイトルの「恋」の前に「失」が抜けてるんじゃないかなとか、思ったりして」
意地悪なことをうれしそうに言う先生でした。月村先生と会ったことのない私は月村先生がもてなかったどうかはしりません。
ただよく言われることですが、恋愛というのは研究するより、むしろ実践すべきものであるし、恋愛の実践において豊かな人たちは恋愛を研究したりはしないような気がします。恋愛について真剣に思い悩み、それを研究し、語ろうとする人は、どちらかというともてない人ではないでしょうか。
それにしても古典古代から現代に至るまで、西洋の文学というのは継続的に恋愛に翻弄される人間たちを描いているのだなあと、この本を見ると改めて思います。
久々にパラパラめくって拾い読みしたけれど、やはりものすごく面白い本です。文学部にやってきたあらゆるもてない人に勧めたい本です。
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【第七日目】
ガブリエレ・ダンヌンツィオ/三島由紀夫・池田弘太郎訳『聖セバスチャンの殉教』、国書刊行会、1988年。
ダンヌンツィオの『聖セバスチャンの殉教』は、ドビュッシー作曲の音楽とともに1911年にパリ・シャトレ座で初演されました。当時、パリで注目されていたバレエ・リュスのレオン・バクストが衣装と美術を担当し、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが主役を努めました。
ドビュッシーの劇音楽はこの作品と《ペレアスとメリザンド》だけだったはずです。まともに上演すれば5-6時間はかかるテクストですが、原稿の遅れがあってドビュッシーが音楽をつけたのはごく一部で、現在はドビュッシーの音楽を伴う縮約版のみがたまに上演されるようです。
ダンヌンツィオは『聖セバスチャンの殉教』を執筆するにあたり、中世演劇研究者のギュスターヴ・コーエンから中世聖史劇について多くの情報と示唆を得ました。作品は各幕に「景」mansionという名称を用いたり、8音節平韻という中世劇で用いられた韻文を用いるなど、中世聖史劇の形式を踏まえて書かれています。
三島由紀夫・池田弘太郎による翻訳の初版は1966年に出版されました。この翻訳は、修辞過剰でごてごてとしたダンヌンツィオの原文よりさらにバロック的でおどろおどろしい言語になっています。文体、内容ともに濃厚すぎて読み通すのはかなりしんどいテクストです。
三島にとってダンヌンツィオが特別の作家であることは、筒井康隆が発表した評論、『ダンヌンツィオに夢中』に詳しく書かれています。また『仮面の告白』のなかで主人公は中学生のころ、マンテーニャの「聖セバスチャン殉教図」に激しい性的興奮を覚え、その画像を見ながらejaculatioを行ったことが詳細に書かれている。
聖セバスチャンは3世紀頃のローマの軍人ですが、弓矢を全身に受けながら恍惚とした表情で空を見上げるポーズを描いた彼の殉教図は、ルネサンス以降、数多くの画家が残しています。
『聖セバスチャンの殉教』は、中世の聖人伝・聖史劇の世界が、ベルエポックの終末期のフランス演劇・音楽、そして三島由紀夫とつながる数少ないモチーフです。カナダのケベックの劇作家、ミシェル=マルク・ブシャールの戯曲『リリーズ』のなかでもダンヌンツィオの『聖セバスチャン』は重要なモチーフとして使われています。
ちなみにデレク・ジャーマンが1975年に聖セバスチャンの伝記映画を作っていてえ、この映画は全編でラテン語が話されています。