閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

豊岡演劇祭2020 9/13(日)

ホテルを10時前にチェックアウトし、豊岡駅のコインロッカーに荷物を預け、10時5分発のバスに乗って城崎国際アートセンターへ向かう。30分ほどで到着。
Q/市原佐都子『バッコスの信女〜ホルスタインの雌』の開演は11時半。『バッコス』のあと、豊岡に戻って16時半開演の中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零』を見ることになっていた。『バッコス』終演後、城崎温泉街をぶらぶら散歩して、海鮮丼でも食べてから豊岡に向かうつもりだったのだが、『バッコス』の上演時間は2時間半あった。昨年秋に名古屋トリエンナーレで見たにも関わらず、『バッコス』の上演時間を2時間くらいだと思い込んでいたのだ。
入場時に一人一人きっちり体温チェック等を行うため開演が押し、終演は午後2時を10分ほど過ぎていたように思う。

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市原佐都子は性欲にとらわれた存在としての人間のすがたを生々しく描く。その性欲の描き方には甘いロマンティシズムはない。性の肉体的喜びに溺れるというよりも、性と結びついた人間関係にともなう支配-被支配の関係、そして性的妄想をエスカレートさせていくときの精神の自由がもたらす快楽といった性の生々しく、みもふたもない現実に、市原は目を向ける。性の快楽によって、私たちは日常的に自分を拘束する縛りからの解放がもたらされる。快楽によって理性の縛りから解放された私たちは、その喜びには、嗜虐あるいは自虐による破壊の快感があることになんとなく気づいているけれど、それに敢えて触れようとはしない。市原佐都子の作品は私たちが抑圧する性のグロテスクを舞台作品として突きつける。
 
性の殺伐とした様相を露悪的に描く作家は少なくない。しかし市原佐都子のような可憐な少女のような見た目の女性が、性愛についての叙情性を一切排した、こうした生々しく、即物的な性を、悪意と攻撃性を秘めた無邪気さのもとに、提示するというのはショッキングだ。市原佐都子は自分がそのような女性であるからこそ、こうした世界を描き出すことに意義があるということをよく知っている。市原は女性の性のリアリティを女性の視点から書く。それは男性が若い女性に対して抱く、「舐めた」視線、甘くて都合のよいファンタジーを打ち砕く破壊力を持っている。男性が女性に抱く性ファンタジーのおぞましさ(一方的でひとりよがりな)、滑稽さが、市原佐都子作品では、その徹底した女性性、男性不在によって、突きつけられるような感じがする。
 
 
市原佐都子『バッコスの信女』は、合唱隊と対話部分が交錯するギリシア悲劇の形式を踏襲しているが、その内容はエウリピデスの作品の翻案というにはあまりに大きな改変が加えられた別の作品になっている。エウリピデスの劇的構造と劇中要素を利用しつつも、それを変形させ、発展させた市原の奔放でグロテスクな想像力は驚くべきものだ。
古代ギリシャ劇と違い、市原の劇の演者は全員女性だ。主要な登場人物が三名で、いずれもエキセントリックで破滅的な人物だ。三人といってもそのうち一人はペットの「犬」を演じる。そして合唱隊(コロス)がいる。最初に登場するのが家畜人工授精師の資格をもつ主婦だ。この人物設定の発想自体がどうかしている。
 
ドラマは彼女の長いモノローグ劇として始まる。彼女は家畜人工授精師という仕事の内容を説明し、そして自分が己の性欲処理をどのようにおこなっているのかを、あっけらかんとした調子で、丁寧に説明する。家畜人工授精師は、酪農家をまわって発情した乳牛に人為的に精子を投入し、受精させる仕事だ。われわれは普段意識することはないが、われわれが日常的に消費する食肉(そして乳製品)のほとんど受精から生育、出荷まで人為的な管理のもとで「製造」される。しかし市原が家畜人工授精師に注目したのは、乳牛の生殖はすべて人の手によって行われているがゆえ、乳牛(肉牛もそうだろう)は例外なく性行為をすることなく、出産するという事実である。牛乳あるいは食肉の安定的供給のために、処女懐胎・処女出産という不自然なことが日常的に行われている事実を、私たちの多くは思い浮かべることはないし、酪農に携わるひとたちはそれを異常だと思ったことはないだろう。しかしそのやり方や過程を丁寧に説明されると、その不自然さにわれわれは気がつき、そこにグロテスクなものを感じてしまう。佐原は人口生殖、処女懐胎が当たり前の家畜の性のありかたから、想像力を発展させていく。
 
家畜人工授精師として多数の牛を妊娠させてきた彼女には、セックスや恋愛についての甘い幻想はまったくない。性欲は1年に一度(「発情期」にということか)、ハプニングバーで解消するものである。そこで若い女の身体が気持ちよさそうだったので、若い女性を誘ってセックスしてみた。するとそれは思ったほどうまくはいかなくて、相手の若い女性に容赦なく罵倒されてしまう。しかし彼女はその罵倒を気にする様子もない。子供が欲しくなったけれど、恋愛というプロセスが面倒だ。家畜人工授精と同じように精子バンクから精子を購入して、自分で自身の膣にその精子を注入して妊娠しようと考える。彼女は欲望についてはむしろ淡泊であり、それにのめり込んでは振り回される感じはない。常に欲望する自分を客観視する視点がある。しかし「〜したい」という欲望に彼女は率直だ。「恋愛して、男性のパートナーを見つけるプロセスが面倒くさい」でも「子供は欲しい」という女性は少なくないだろう。欲望合理主義者の彼女は精子バンクから冷凍精子を購入する。
自身は家畜人工授精師である受精のプロであるゆえに、彼女は自分でその精子を自分の膣に投入しようとするが、いざ投入しようとすると、不安が大きくなった。購入した精子を捨てるのがもったいないので、彼女は乳牛にその精子を投入してしまう。
牛と人間のあいだに生まれた子供がなぜ両性具有であるのかは説明されない。牛と人間のハーフなので、ミノタウロスかと思ったが、この両性具有者は上半身が人間で下半身が馬のケンタウロスと呼ばれていた。半人半獣の怪物でギリシア神話に結びつくものであればいいということだろう。この半人半獣は巨大な男根を持っている。母親となった家畜人工授精師は、激しすぎる性的衝動を持て余し苦しむ子供をにエロ本を見せて自慰を行うように促す。そして母親は狂ったように自慰を続ける半人半獣の子供を結局は見捨て、家に置き去りにしてしまうのだ。ここで家畜人工授精師の一人語りの最初の場面につながる。彼女はコーンフレークは、ケロッグ博士が性欲抑制のための食事として考案したのだという蘊蓄を語っていたのだ。その語りには、かつて自分が誕生させた半人半獣の子供を捨てた罪悪感はみじんも感じ取ることができない。
十数年後に彼女の家を訪ねてくるのは家畜人工授精師がかつて捨て去った半人半獣の怪物なのだが、彼女はそのことになかなか気づかない。
半人半獣の怪物に心理的に誘導され、その怪物が住むアジトへ向かうのだが、家畜人工授精師はそこで『バッコスの信女』のペンテウスのように惨殺されることなく、家に戻る。そしてもぎりとった半人半獣の怪物の一物を焼き肉にして食べる。これが結末だ。
 
『バッコスの信女』の公演が終わったのが午後2時過ぎだった。この日はこのあと午後4時半から豊岡市民会館で中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零(ゼロ)』を予約していた。『バッコスの信女』の終演後、アフタートークがあるとアナウンスがあったが時間が一時間ほどかかるという。午後3時過ぎだと昼ご飯を食べたあと、城崎温泉から豊岡に移動していると、『零(ゼロ)』の開演に間に合わなくなってしまう恐れがある。城崎温泉駅から全但バスに乗って豊岡駅に戻る。ちなみに今回の演劇祭では豊岡市内バス乗り放題チケット(土日券1900円)を購入したのだが、バスの停留所、時刻表、路線などの運行情報の調査が甘くてあまり有効に使えなかった。結局使ったのは12日(土)の豊岡-江原の片道、そして13日(日)の豊岡-城崎の往復だけ。バス運賃は一回400円ぐらいだったので、乗り放題チケットを買った意味はあまりなかった。一人乗り電気自動車のコムスの無料貸し出しやオンデマンドの乗り合いタクシーというサービスも用意されていたことにあとになって気づく。前もってわかっていれば利用したかった。

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中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零(ゼロ)』、これは現代音楽オペラ。会場の豊岡市民会館は、この三日で私がめぐった豊岡演劇祭の会場の中で一番広い場所だった。1500人ぐらいは入れそうなホールだが、今回は新型コロナ感染対策で半分以下になっている。
暗い照明のなかで女優三人による台詞劇とNgatari(このバンドについては先ほどググって知った)のJessicaのヴォカリーズによるアリアの場面が交錯する。美しい曲だったし、全身を使ったJessicaのパフォーマンスは魅力的だったけど、移動で疲れていたのか、断片的な場面をつないだ静かで詩的なこの作品を味わう集中力を欠いてしまっていた。一時間半ほどの公演だったが、30分ぐらいは夢うつつだった。マスクをしたままの鑑賞だと、酸素不足になるせいか、眠気が強くなるような気がする。今ふりかえって思い返すと私好みのいい作品だったような気もしてきた。機会あればまた見てみたい。
 
18時前に室内オペラ『零(ゼロ)』の会場の豊岡市民会館を出る。駅の売店で鯖寿司弁当を列車のなかで食べる夕ご飯として購入。
豊岡-福地山、福知山-京都、京都-東京と乗り継いで、終電で自宅の最寄り駅に到着する予定だったが、福知山-京都間で線路内動物侵入のため列車が20分ほど遅れて、接続がかなりシビアなものとなってしまった。最悪、渋谷か池袋のネットカフェで夜明かしになるかなと覚悟したが、ぎりぎり接続が間に合って帰宅することができた。